「自分の十字架」
@聖書協会・共同訳 マタイによる福音書
16:24 それから、弟子たちに言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。
16:25 自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。
十字架を負う、ということは、重荷を負うことではない。
それは、死、を意味する。
①十字架
ローマ人は人口に対する権威と支配権を発揮する手段として用いた。
受刑者を十字架に釘付けする前に、酢や没薬の混合物が提供された。
木製の足台が垂直部分に固定されて、受刑者は体を持ち上げて呼吸し、苦痛を長引かせ、死亡まで最長3日間掛かった。足台がない場合、受刑者は釘刺しの手首でぶら下がる。
時には、受刑者の足を折り、死が早く来るようにした。
犯罪の抑止として、受刑者の頭の上の十字架に刑事告発状を掲示し、公共の場所で十字架刑を執行し、みせしめとされた。死後、身体は通常十字架の上に吊るされたまま、さらしものとされた。
②一義的意味と二義的意味
聖書の記述は、執筆時の背景、状況、文章の前後関係、これらを踏まえて読解する。
@聖書協会・共同訳 創世記
22:2 神は言われた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして私が示す一つの山で、彼を焼き尽くすいけにえとして献げなさい。」
一義的意味は、これは律法制定前の時代にアブラハム個人に語られたことば。
現代のキリスト者に語られたものではない。
二義的意味として、アブラハムのように神の言葉に従う姿勢、自分の最も大切にしているものを、神に明け渡す献身、として理解する事ができる。
③キリストの十字架による転換
福音書は、イエスの宣教の記録であり、多くの記述が十字架以前の出来事。
それは、「モーセ律法」が有効とされる時代。
イエスの宣教時、イスラエル民族国家はローマ帝国の属国であり、国内においては「モーセ律法」がないがしろにされ、「口伝律法」が蔓延していた。
④「御国の福音」
旧約で預言されていたメシア王国の到来をイスラエル民族国家に告げ知らせ、その王国を来たらせるメシアが「ナザレのイエス」であることを伝える福音。
この福音が告げ知らされた時、もしイスラエル民族国家がイエスをメシアと認めていたのであれば、メシア王国は直ちに到来していた。だが、イスラエル民族国家は「ナザレのイエス」を拒否したので、その到来は将来に先延ばしにされた。
「御国の福音」は、イエス・キリストの十字架の贖罪を認めることではない。
@聖書協会・共同訳 マタイによる福音書
3:1 その頃、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝えて、
3:2 言った。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
@聖書協会・共同訳 マタイによる福音書
4:17 その時から、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
「御国の福音」は、イエスの昇天後も継続して宣教されている。
@聖書協会・共同訳 マタイによる福音書
24:14 そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
イエスの昇天後における「御国の福音」は、イエスの地上再臨、メシア王国の建国を待ち望み、イエスの弟子として生きること。
@聖書協会・共同訳 マタイによる福音書 [28]章
マタ 28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。
マタ 28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、
マタ 28:20 あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
⑤「恵みの福音」
イエス キリストの十字架死と復活による贖罪を告げ知らせ、イエス・キリストの聖名による「救い」を伝える福音。
将来のメシア王国の到来までの時間、挿入されたのが現在の教会時代。
この教会時代に告げ知らされているのが「恵みの福音」。
イエス・キリストの十字架死、葬り、復活を認め、イエスを「救い主」として受け入れることで、人は「霊の救い」を与えられる。
@聖書協会・共同訳 使徒言行録
20:24 しかし、自分の決められた道を走り抜き、また、神の恵みの福音を力強く証しするという主イエスからいただいた任務を果たすためには、この命すら決して惜しいとは思いません。
@聖書協会・共同訳 コリントの信徒への手紙 一
15:1 きょうだいたち、私はここでもう一度、あなたがたに福音を知らせます。私があなたがたに告げ知らせ、あなたがたが受け入れ、よりどころとし、
15:2 これによって救われる福音を、どんな言葉で告げたかを知らせます。もっとも、あなたがたが無駄に信じたのではなく、今もしっかりと覚えていればの話ですが。
15:3 最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、
15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
15:5 ケファに現れ、それから十二人に現れたことです。
⑥「御国の福音」における「自分の十字架」
@聖書協会・共同訳 マタイによる福音書
16:24 それから、弟子たちに言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。
16:25 自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。
一義的に、イエスの弟子たちへのことば。
イエスの宣教活動は、メシア王国の到来を告げるものであったので、必然的にローマ帝国への反逆罪とみなされる。
この場合、ローマ帝国による十字架刑を覚悟すること。
現代的に捉えるならば、殉教の覚悟を持つこと。
⑦「恵みの福音」における「自分の十字架」
聖書協会・共同訳 ヘブライ人への手紙
12:2 信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の王座の右にお座りになったのです。
イエスは十字架の先にある「喜び」のために、十字架に掛かった。
イエスの復活により、十字架は死んで終わるものではなく、復活への入口となっている。
@聖書協会・共同訳 マタイによる福音書
16:24 それから、弟子たちに言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。
16:25 自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。
25節の「いのち」、原語は「魂」。
現代のキリスト者においては、十字架は「魂の救い」を得る機会。
2000年前の「共なる死」、その霊の領域における事実を、現出させること。
キリストの内にあって死んだことを認める。
「自分に死ななければ」ではなく「自分はすでに死んでいる」
@聖書協会・共同訳 ガラテヤの信徒への手紙 [2]章
2:19b 私はキリストと共に十字架につけられました。
2:20 生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。
*神の御子の信
古い自己(アダム属の痕跡)と、新しい自己(キリスト属の意識)を切り分ける働き、いのちの交換、これが二義的「自分の十字架」。
@聖書協会・共同訳 ヘブライ人への手紙
4:12 神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。
⑧霊の実
@聖書協会・共同訳 ガラテヤの信徒への手紙
5:22 これに対し、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。
5:24 キリスト・イエスに属する者は、肉を情欲と欲望と共に十字架につけたのです。
5:25 私たちは霊によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。
「霊の実」は、「恵みの福音」の中で「自分の十字架」を負い、古い自己を死なせた後に顕れる新しい自己であり、それはキリストのいのちによる結実。