共同体としての在り方、キリストの弟子としての在り方。
①可視的「エクレシア」
@Ⅰコリント1:2【協共訳】
1コリ 1:2 コリントにある神の教会と、キリスト・イエスにあって聖なる者とされた人々、召された聖なる者たち、ならびに至るところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めるすべての人々へ。イエス・キリストは、この人たちと私たちの主です。
この聖句にあるとおり、可視的なエクレシアは、キリストを呼び求める人々。
建物や宗教団体ではない。
日本語では「教会」とされているが、「教える会」「教えの会」ではなく、漢字の意味的には不適当。漢字の意味を考えると「召衆」が適当。
聖書の提示する可視的「エクレシア」は、都市、街、地域の区分。
牧師が信徒を教会籍制度で囲い込み、集金して作業させ、建物を建築維持するようなものではない。
複数の長老、複数の執事、によって運営される。
現代では、分裂を繰り返し、プロテスタント諸派においては非常に小規模になっており、それぞれがボクシを擁立しており、士師記18章を想起させる。
②不可視的エクレシア
不可視的エクレシアの定義とされるにエペソ人への手紙1:23の訳文比較。
日本語の聖書では「ところ」や「場」という言葉を加えられ、宗教団体や建物を印象着けるように、意訳されている翻訳が見受けられる。
③エクレシアは共同体
いわゆる「主の祈り」は「われらの父よ」(マタイ6:9)。
神は、共同体をひとつとして見ておられる。
旧約においては
@出エジプト20:1-6【新改訳改訂第3版】
20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、【主】である。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
原語的には、あなた(単数)。
イスラエル全体をひとりとして見ているという視点。
また、他の人がどうであっても「あなた個人は」という視点でもある。
⑤独立のキリスト者
一人ひとりが神の前にひとりで立つことも教えられている。
@ヨハネ伝21:18-22【協共訳】
ヨハ 21:18 よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」
ヨハ 21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「私に従いなさい」と言われた。
◆イエスとその愛する弟子
ヨハ 21:20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子が付いて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸元に寄りかかったまま、「主よ、あなたを裏切るのは誰ですか」と言った人である。
ヨハ 21:21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
ヨハ 21:22 イエスは言われた。「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい。」
他人と主との個人的関係と、自分の主との個人的関係は、同じではない。
パウロは独身者として、キリスト者の結婚について、こう教えている。
これを適用するのであれば、画一的にならなくていい、だろう。
@聖書協会・共同訳 コリントの信徒への手紙 一 [7]章
1コリ 7:7 私としては、皆が私のようであってほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているので、人によって生き方が違います。
それぞれ与えられた賜物と、それぞれの成熟度(到達したところ)は異なる。
@聖書協会・共同訳 フィリピの信徒への手紙 [3]章
フィリ 3:13 きょうだいたち、私自身はすでに捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
フィリ 3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
フィリ 3:15 だから、完全な者は誰でも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたが何か別の考え方をしているなら、神はそのことも明らかにしてくださいます。
フィリ 3:16 いずれにせよ、私たちは到達したところに基づいて進みましょう。
大切なことは、ひとりひとり、自分の人生の管理者として、所有者である主キリストに聴くこと。
@聖書協会・共同訳 ヨハネの手紙 一 [2]章
1ヨハ 2:27 あなたがたの内には、御子から注がれた油がとどまっているので、誰からも教えを受ける必要はありません。この油があなたがたにすべてのことを教えます。それは真理であって、偽りではありません。ですから、その油が教えたとおり、御子の内にとどまりなさい。
*塗油:任職の油注ぎではなく、膏薬。
この箇所は、文脈としては「偽りもの」「反キリスト」「惑わす者」についての、この御言葉を用いて、自分勝手を正当化することはできない。
そしてまた、この「塗油」が教える、ということを軽視することはできない。
御子の内にとどまる、ということは、神の支配下(天国)にあるということ。
⑥まとめ
教職者や宗教団体に依存しない、独立のキリスト者が求められる。
そして独立のキリスト者の集う、そのような交わりこそが、求められている。