I.D.F.

Independent Disciple fellowship

十字架の二面性①

カルバリの十字架におけるイエスの死により、「罪を裁く」神の義と、「人を憐れむ」神の愛が完全に表された。


このイエスの十字架死と復活は「いのちの霊の法則」による人類救済をもたらした。
イエス・キリストを救い主として受け入れる者に、「罪と死の法則」からの解放という恵みをあたえる。
 
@ローマ8:2
【協共訳】キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
 


罪とは


旧約聖書の原意では、おおまかに三種類の言葉が使われており、「間違い」、「悪を選ぶ」、「逆らう」、という意味。
新約聖書における原意は、アーチェリー競技に由来する言葉で、「的外れ」という意味であり、基準から外れる事、規格外、といえる。
 
これらの意味をくみ取るならば、神の定めから外れること、神の言葉に背くこと、神の主権を認めないこと、創造の意図から離れて生きる事、といえるだろう。
創世記において、人は「善悪の知識の木」を取って食べた。これは、神に従って生きる、神にあって生きる、神とともに生きる、神とひとつとして生きる、という人間の創造の目的を拒否することであり、それは神への反逆であった。
人間が神に従って生きるのではなく、自分で物事を判断して生きる、この創造の秩序から離れた生き方、神から分離しているが「的外れ」であり、「罪」。 
 
今日の代表的な「的外れ」 → 聖書の否定また歪曲。

人の理解できる範囲に創造主を制限する(創造、処女懐胎、復活などの否定)。
 


なお、誘惑に遭うことは「罪」ではない。イエスも誘惑に遭われた。誘惑に遭うことと、罪を犯すことは、全く違うことである。

誘惑により葛藤することは「罪」ではない。
 


罪と死の法則


創世記において、創造主はアダムが「善悪の知識の木」から食べるとき、彼が「死にながら死ぬ」また「死の中で死ぬ」と語られた。邦訳では「必ず死ぬ」と訳されている。
 
@創世記2:17
【協共訳】ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。

聖書における人の「死」は、魂と分離すること、といえる。人は「霊・魂・身体」の三構造の存在として造られており、アダムは罪を犯した後、霊と魂が分離して、霊の機能不全に陥り、創造主に順応できない存在となり、やがて身体と魂が分離して、魂はよみに下り、身体は土に還った。
 
始祖人アダムが、善悪の知識の木から食べた。この際に全人類は、彼の腰の中に存在していた、というのが創造主の永遠からの視点。
ゆえに、アダムの子孫である全人類は生まれながらに、罪の結果である「死」を持っている存在、死の中に生まれた存在、である。
生まれながらにして、霊と魂が分離して機能不全なので、人は創造主に順応できない。人は、死の中に生まれ、死の支配下にあるので、罪の誘惑にあらがえない。
*イエスは「死」をもっていなかったので、霊が健全に機能しており、創造主の存在と言葉に順応していた(ルカ伝3:42-50参照)。

 

@Ⅰコリント15:56
【協共訳】死の棘は罪であり、罪の力は律法です。
 
@ローマ5:12
【協共訳】このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に──

 

*すべての人たちに死が広がった。その結果、すべての人が罪を犯すようになった。
 死の結果として全ての人が罪を犯した

 

 

人は、あるとき自己の意志によって、罪を選択をした際に、自己の内に罪を取り込んでしまう。そのため人は、内在の罪、を持つ。
 
この内在の罪が、人の肢体を用いて罪の言動を実行する。この罪を処理しないかぎり、人は「死にながら死に」、いずれ永遠の滅びとなる。
これは法則なので、人の業では抗うことはできない。 この「罪と死の法則」からは、「いのちの霊の法則」によってのみ、解かれ得る。「いのちの霊の法則」は、キリストによる救いであり、それはイエス・キリストの十字架死と復活によって、もたらされた。 

 

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