I.D.F.

Independent Disciple fellowship

初歩の教え②キリストについての教え

@へブル6:1【新改訳2017】
6:1 ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、
6:2 きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。

 

今日から、「キリストについての教え」に入ります。

まずはじめに、この御言葉から、その大切さを確認したいと思います。

 

@Ⅰテモテ3:14【新改訳2017】
3:14 私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながら、これらのことを書いています。
3:15 たとえ遅くなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたに知っておいてもらうためです。神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。
3:16 だれもが認めるように、この敬虔の奥義は偉大です。「キリストは肉において現れ、霊において義とされ、御使いたちに見られ、諸国の民の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

 

このテモテへの手紙は、新約の使徒パウロから、弟子であり同労者であるテモテに向けて書かれた手紙です。テモテ3章は、監督、執事、という教会の奉仕者に任命することについての条件を提示しています。

そして、テモテに教会においてどのように行動するのか教えたいという趣旨の途中で、「神の家」という言葉から、神の家→教会→真理の柱また土台、真理→「敬虔の奥義」、と展開していきます。つまりはこの「敬虔の奥義」を持っている、「敬虔の奥義」があるもの、それが教会である、と教えています。

 

そこで、この「敬虔の奥義」、この言葉の意味を確認します。

 

まず「敬虔」という言葉は、他の翻訳では「信心」と訳されています。

敬虔なクリスチャンとか、信心深い、といった表現がされますが、この「敬虔」また「信心」と訳されている言葉は、一般的に「神に畏敬を持ち、仕えること」という意味です。 

 

そして「奥義」という言葉は、旧約聖書の時代には明らかにされていなかったこと、イエス・キリスト以前には神が隠されていたこと、を意味しています。

ですので「敬虔の奥義」という言葉の意味するところは、「旧約時代には隠されていた、神に畏敬を持って仕える姿勢」であり、それはイエス・キリストによる、ということになります。

 

「キリストは肉において現れ、霊において義とされ、御使いたちに見られ、諸国の民の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

 

このことを事実として認め、受け入れること、それが真に「神に畏敬を持ち、仕えること」、敬虔、信心、を生み出します。 

この言葉は、当時の教会で歌われていた讃美歌の歌詞が書かれている、と言われています。

 

「キリストは肉において現れ」、これはイエス・キリストが人として来られたことを意味しています。

原語で見ると、「神がその肉にはっきりと現れた」という意味で記述されています。

以前お伝えしました、神の創造の意図である「人が神の似姿となる」ということを、イエス・キリストがまず成された、手本を見せてくださった、ということです。 

 

ヨハネ伝1:14【新改訳2017】
1:14 ことばは人となって、私たちの間に*住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

*幕屋を張った

 

幕屋というのは「テント」「仮庵」という意味で、ひとつの意味は「仮住まい」という意味です。もうひとつは旧約聖書の「モーセの幕屋」「会見の天幕」です。

この「モーセの幕屋」は、至聖所、聖所、大庭の三構造になっており、人間の「霊・魂・体」の三構造に該当します。これはとても興味深い学びになりますが、今日は先に進みます。

 

@Ⅰヨハネ4:2ー3【新改訳2017】
4:2 神からの霊は、このようにして分かります。*人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。
4:3 イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。

*「人となって」→「肉となって」

 

「霊において義とされ」、これは先の肉の対比です。

この「義とされ」というのは、神を全てにおいて肯定する姿勢、信頼する有様、を持っていることが、神に認められたという意味です。

 

@マタイ伝3:16-17【新改訳2017】
3:16 イエスバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
3:17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

 

またローマ人への手紙の書きだしは「キリストは肉において現れ、霊において義とされ」た、このふたつの事柄を記述から始まっています。

 

@ローマ1:1ー4【新改訳2017】
1:1 キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。
1:2 ──この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、
1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。

 

キリストは死人の中から復活したことによって義であることが証明されました。イエス・キリストが死んだままであったなら、彼はただの人であり、救い主、メシア、キリストではありません。主イエスは死んで復活してくださいました。それによってこの方が神の御子として、義なる方として公に示されました。

そして、この「公に示された」ということは、次の「御使いたちに見られ、諸国の民の間で宣べ伝えられ」という部分に対応します。

これは、天的な存在、目に見えない領域の存在に対して、また地上的な存在、私たち人間に対して、神が定められた、ということです。

「御使いたちに見られ」、イエス・キリストは、天的な存在である御使いたちによっても注目されました。

ルカ伝2:14 によれば、キリストが生まれるとき、御使いたちはその誕生を羊飼いたちに伝え、神を賛美しました。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

また、マタイ伝4:11には、主イエスが荒野で悪魔の誘惑を受けられた際に、御使いたちが近づいてきてイエスに仕えたとあります。ルカ伝22:43では、主イエスゲッセマネの園で祈られた時に御使いが力づけたとあり、ヨハネ伝20:12には、主イエスが死人の中から復活した時に御使いが現れています。主イエス様の生涯は御使いたちに見られていました。

そして、イエス・キリストの復活と昇天、その福音は、諸国民の間に宣べ伝えられました。神の国の福音は、アブラハムの子孫である選民イスラエルだけではなく、神から遠く離れた諸国民、いわゆる異邦人にも宣べ伝えられ、現在も継続しています。

その結果、「世界中で信じられ」ました。この手紙を書いたパウロもその一人であり、私たちもそこに含まれています。

@ローマ1:16【新改訳2017】
1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。

そして主イエスは、「栄光のうちにあげられ」ました。栄光のうちにあげられた、ということは、十字架死と復活と昇天、を意味しています。イエスの十字架は神の栄光であり、イエスの復活も、昇天も、神の栄光でした。

ヨハネ伝13:31【新改訳2017】
13:31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。
13:32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。

 

これらの事柄は、私たちが信じているイエス・キリストへの信仰であり、私たちにとっては、当たり前のことであるかもしれません。ですがキリスト以前、旧約時代、その時代の敬虔は、モーセ律法を守り行い、神殿で動物を犠牲として捧げることが、神を畏れ敬う姿勢、敬虔の在り方でした。その価値観を前提にすると、イエス・キリストの十字架と復活、昇天による新約時代は、素晴らしい恵みの時代であるといえます。 

それでは、イエス・キリストというお方について、どのようなご性質を持っておられるのか、七つの項目で確認してみたいと思います。

 

⇒ 初歩の教え1⃣キリストについての教え - I.D.F.