私たちは、イエス・キリストを「救い主」として認め、受け入れました。
そして、キリスト者、クリスチャン、と呼ばれる存在になりました。
私たちは普段、あまり意識していませんが、これは神の業、神の働きです。
@ヨハネ伝6:28-29協共訳
6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
と書いてあるとおりです。
神が遣わした救い主、イエス・キリストを信じ受け入れること。
これは神の業、神の働きです。
ひとりひとり、様々な環境、異なる状況の中で、イエス・キリストを「救い主」として、受け入れました。それぞれの選択、決断があったのですが、それらは大きな視点で見ると、すべて神の御手の中で、神がそのように成された、神の業、神の働きである、といえます。
この神の業は、神によって始まり、神によって進み、神によって完成します。
@ローマ11:36協共訳
11:36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
また、主イエスご自身は、こう教えています。
@マルコ伝4:26-29協共訳
4:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、
4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4:28 地はおのずから実を結ばせるのであり、初めに茎、次に穂、それから穂には豊かな実ができる。
4:29 実が熟すと、すぐに鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
「神の国」というのは、「神の支配」を意味しています。「天の御国」という言葉も、同じ意味です。「神の支配」もしくは「神の統治」、神が治められるところ、これが神の国です。
私たちはキリスト者は、すでにこの「神の国」に生きている存在です。
そして、私たち一人ひとりに、それが与えられています。
@Ⅰペテロ1:23-25協共訳
1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける言葉によって新たに生まれたのです。
1:24 こう言われているからです。/「人は皆、草のようで/その栄えはみな草の花のようだ。/草は枯れ、花は散る。
1:25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。
朽ちない種、というのはなんでしょうか?
イエス・キリストご自身です。イエス・キリストご自身が、私たちの心、私たちの霊に住んでおられます。
@ガラテヤ4:6協共訳
4:6 あなたがたが子であるゆえに、神は「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。
御子イエス・キリストが、私たちの霊に住んでくださり、そのキリストから発し、キリストによってなり、キリストによって芽を出し、キリストによって実をつけ、キリストによって「神の国」、神の支配が、私たちに現われてくる。これが聖書の教えるところです。
では、人は何もしなくてもよいのか、もちろんそうではありません。
私たちキリスト者に求められていることは、神への応答、です。積極的な応答、が期待されています。
神がキリスト者に求めておられることは、一つです。
@ガラテヤ2:19-20協共訳
2:19 私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。
2:20 生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。
*神の子の真実:別訳「神の子の信」
言い換えると、「イエス・キリストご自身が、私のうちに生きておられる」ということです。
それは「私ではなくキリスト」と、表現する事ができます。
神が私たちに求め、願っておられるのは、この一言「私ではなくキリスト」に要約することが出来ると言っても過言ではありません。
「私」という存在を退け、「私」に代えて「キリスト」が生きる、即ち、命の原動力が「私」から「キリスト」に置き換わるということ、「私ではなくキリスト」、これが神の業であり、神の働きです。
このことはキリスト者の土台であり、常に覚えておきたい事柄です。
そのために、私たちには聖書が与えられており、この聖書に言葉を読み、理解していくときに、より神に応答できるようになります。神に応答できるようになる、ということは、人の本来の目的、神の創造の意図の回復です。人の本来の目的が実現するということは、人がより自由になる事、より喜びを得る事、より平和に生きる事、より幸せになる事、でもあります。
@ガラテヤ6:14―15協共訳
6:14 しかし、この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この方を通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです。
6:15 割礼の有無は問題ではなく、大事なのは、新しく造られることです。
*新しく造られる:別訳「新生命体」
割礼というのはアブラハムの契約に基づくしるしであり、また出エジプト記にある「シナイ契約」のモーセ律法の規定であり、イスラエル人の男性はみなそれが定められていました。
新約のキリスト者は、イスラエル人でなるか否かは問われない、イエス・キリストにある「新しい創造」とされています。
この「新しい創造」は「新しい生命体」という意味です。
古い創造、古い生命体は、アダムの子孫としての人です。
ですが、イエス・キリストにあって、新しく生まれた人はみな、「キリストの霊」を受けた、新しい生命体です。
@Ⅰペテロ1:23協共訳
1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける言葉によって新たに生まれたのです。
この「種」という言葉は、「遺伝子」を意味しています。
イエス・キリストにあって、新しい遺伝子を受けた存在、新しい生命体、それがキリスト者です。
キリストの命が、キリスト者の内側で、増殖、成長します。
@コロサイ2:19協共訳
2:19 頭であるキリストにしっかりと付くことをしません。この頭が基になり、体全体は節と節、筋と筋によって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。
*神に育てられて成長してゆく:別訳「神の成長を成長する」