①バプテスマとは
バプテスマとは、布の染色などに使われる用語。
漬ける、浸す、という行為により、変質すること。
キュウリの「漬物」は、糠味噌にバプテスマされて、糠味噌と一体化して、きゅうりではない「漬物」に変質している。
聖書の提示する人間構造は「霊・魂・体」であり、三位一体の創造主ヤハウェ・エロヒムの「かたち」と「似姿」を意図されている=「image」に造られている。
@Ⅰテサロニケ5:23【新共同訳】
どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。
人の「霊」は、霊である神を認識し、応答する。
人の「魂」は「知性・感情・意志」として、自分と他者を認識、応答する。
人の「体」は五感を持ち、物質を認識し、応答する器官。
それぞれにバプテスマ、一体化による変質、が備えられている。
@エペソ4:1-6【新共同訳】
4:1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、
4:2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、
4:3 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。
4:4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。
4:5 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、
4:6 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
@へブル6:1ー2【新共同訳】
6:1 -2だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。
エペソ4:5の焦点は、一致。
ここの「バプテスマ」は、公の信仰告白である「水のバプテスマ」であり、それはマタイ28:19にある「父、子、霊」の聖名(単数形)によるもの。
ヘブル6:1の焦点は、キリスト生活の知識と実際。
* 水のバプテスマによって、人が救われるわけではない。
@Ⅰコリント12:2-3【新共同訳】
12:2 あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。
12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
@ローマ10:9-13【新共同訳】
10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
10:11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
10:13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
主:キュリオス=主権者
ローマ皇帝の称号のひとつ。イエスをキュリオスとすることはローマへの反逆的な思想、姿勢。
奴隷の所有者にとって、奴隷がイエスがキュリオスとすることは、自分をないがしろにすること。
当時のユダヤ人にとって、キュリオスは「ヤハウェ」を意味する呼称。
イエスをキュリオスとすることは、冒涜とされる。
また、自由人と奴隷、奴隷とその主人が、エクレシアの晩餐において共に食事をすることは、破戒的行為。
エクレシアは、当時の文化や社会習慣にそぐわないもの。
@Ⅰコリント12:12-13【新共同訳】
12:12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
*「私たちは皆、一つの体の中に入るバプテスマを受け、一つの霊を飲ませてもらった」
1コリント10:1ー4において、モーセにつくバプテスマ、モーセとの一体化を、キリストの救いの雛型としている。
@ローマ6:3ー4【新共同訳】
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
@コロサイ2:12【新共同訳】
2:12 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです
聖霊により、キリストの体にバプテスマされること、これが「霊の救い」。
キリスト者は「キリストの体」とされている。
@使徒9:3-5【新共同訳】
9:3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
9:5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
@Ⅰコリント6:15-17【新共同訳】
6:15 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。
6:16 娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。
6:17 しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。
④アダム属とキリスト属
@Ⅰコリント15:45-47【新共同訳】
15:45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。
15:46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。
15:47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。
@ローマ5:13-15【新共同訳】
5:13 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
5:14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
5:15 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。
*包括の原理
@ヘブル7:9-10【新共同訳】
7:9 そこで、言ってみれば、十分の一を受けるはずのレビですら、アブラハムを通して十分の一を納めたことになります。
7:10 なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだこの父の腰の中にいたからです。
アダムの腰の中に存在し、あの罪を共有したのが、アダム属。
アダムが「死の中で死ぬ」といわれたように、「死」の中に生まれている。
イエスの十字架死の中に存在し、葬りと復活を共有するのが、キリスト属。
キリストの復活の中で「いのち」の中に生きている、生かされている。
創造主の視点では、人種はふたつ。
「アダム属」
アダムの内にある人=アダムの罪を共有=アダム属=旧創造=罪人
「キリスト属」
キリストの内にある人=キリストの死と復活を共有=キリスト属=新創造=聖徒
@ガラテヤ2:20【新共同訳】
2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
*神の子の「信」によるもの
⑤キリストの霊
「御体に属するバプテスマ」は、聖霊によりキリストと一体化させられる。
ルカ1:35の受胎告知を参照。その際に、人は「新生」また「義認」される。
@ローマ8:14ー16【新共同訳】
8:14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
8:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
8:16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
@ガラテヤ4:6ー7【新改訳2017】
4:6 そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。
4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。