I.D.F.

Independent Disciple fellowship

新約の聖徒

「新約の聖徒」

①新約の聖徒
イエス・キリストにある新しい契約に生かされている、選び分けられた人々。
「罪人」ではない。
 
キリスト教会では、「私たちは罪赦された罪人です」とか「教会は罪人の集まりだから問題があっても許し合いましょう」と言われる。
聖書の提示するところは、キリスト者は「新約の聖徒」。
 
②「罪」について
「罪」という言葉は、旧約聖書のへブル語でざっくり見ると、三種類の言葉が使われており、「間違い」、「悪を選ぶ」、「逆らう」という意味。
 
新約聖書ギリシャ語では「的外れ」という、アーチェリー競技に由来する言葉が使われ「基準から外れる事」、「規格外」の意味。
 


@Ⅰヨハネ3:4
【新改訳2017】
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。
【協共訳】
3:4罪を犯す者は皆、不法を行っています。罪とは不法のことです。

 

 

この「律法」というのは「モーセ律法」と呼ばれる、イスラエルの民に与えられた「神の教え」、「神の定め」。


私たちは異邦人は、イスラエルの民ではなく、この「モーセ律法」のもとにはない。

文字として「神の教え」、「神の定め」を受けてはいない。

 

生まれながらの心にある善悪の基準を持っており、時に悪を選んだもの。 

 

@ローマ2:14―15
【新改訳2017】
2:14 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。
2:15 彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。
【協共訳】
2:14たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
2:15こういう人々は、律法の命じる行いがその心に記されていることを示しています。彼らの良心がこれを証ししています。また、互いに告発したり弁護したりする彼らの議論も、証ししています。

 

 

 

聖書の提示する「罪」


「間違い」、「悪を選ぶ」、「逆らう」、「規格外」「的外れ」。
これらの意味をもっと読み取るならば、神の言葉に背くこと、神から離れて生きること、神の主権を認めないこと、といえる。
 
③ふたつの注意点


「律法について」
異邦人はイスラエル人ではないので、もともとモーセ律法の支配のもとにない。
モーセ律法を守り行う義務はない。
 
モーセ律法は神の教えであり、イエス・キリストが救い主であることを、いろいろな形で伝えている。神がどのようなお方であるのか、神がなにを望まれておられるのか、神がどうのような約束を与えてくださっているのか、提示している。
 
モーセ律法を理解することは、キリスト者の益。
守り行うべき掟としてではなく、宝探しのような期待を持って読む。

信仰によらないことはみな「罪」
 
@ローマ14:22-23
【新改訳2017】
14:22 あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。
14:23 しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。
【協共訳】 
14:22あなたは自分の持っている信仰を、神の前で持ち続けなさい。自ら良いと認めたことについて、自分を責めない人は幸いです。
14:23しかし、疑いながら食べる人は、罪に定められます。信仰に基づいていないからです。信仰に基づいていないことはすべて、罪なのです。

「信仰」という言葉は、「信じて仰ぐ」と漢字でく、当て字。


「信じて仰ぐ」というのは人の行為、聖書が提示している意味ではない。

例:「教会」「教える会」という当て字で、本来の意味から外れている。

「エクレシア」が「教会」と翻訳されているが、本来の意味は「呼び出された集会」。
聖書の言葉は専門用語の当て字。漢字の意味とは違う。
 

日本語の「信じる」には「思い込む」という意味が含まれる。
聖書の「信じる」という言葉は、「事実と認める」という意味。


イエス・キリストを救い主として信じます」という言葉は、「イエス・キリストは救い主だと事実認定します」、これが聖書の「信じる」。
 
イエス・キリストを事実とするときに生じる姿勢、態度、感覚、それが「信」です。

その「信」は人を、神に忠実であろう、真実であろう、とさせる。
 


ローマ14:22-23は、食べてよいものとよくないものの判断について。疑いを持ちながら食べる、というのは、忠実であろうという姿勢ではなく、キリスト者として的外れな態度であり、罪とされる。


迷うならやめる、やるなら考えをまとめる、どちらかであるべき。
 


例:宝くじを買ってもいいのだろうか?
疑問を持ちながら買うのであれば罪です。買わない方がよい。
もし宝くじを買うなら、宝くじを通して祝福してください、と願うべき。

酒や煙草といった嗜好品、テレビや映画といった娯楽、旅行、ブランド品、財産の所有などと、どのように関わるのか、それは一人ひとりの判断に任されている。

 

注意点:
人生を楽しみ喜ぶことは、人の幸せであり、神が願っておられること。また地上での繁栄が悪であると聖書は教えない。
大事なことは、私たちがイエス・キリストに忠実であるか、真実であるか、という点。
どのような生活をするにしろ、私たちはイエス・キリストに忠実であろうと願い、疑いをもたない選択をして、生活することが望ましい。
 

 


④「罪」の単数形と複数形
 
@Ⅰヨハネ1:8-9
【新改訳2017】
1:8 もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
1:9 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
【協共訳】
1:8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。
1:9 私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。
【ESV】
1:8 If we say we have no sin, we deceive ourselves, and the truth is not in us. 
1:9 If we confess our sins, he is faithful and just to forgive us our sins and to cleanse us from all unrighteousness.
 
単数形の罪「sin」が意味するのは、「私の内に働く神に逆らう原理」。
複数形の罪「sins」が意味するのは、「私の言葉と行いによる過ち」。
日本語の聖書では、単数形と複数形の区別が曖昧。要注意。
 


聖書に「罪」という言葉を見たときには、それが広い意味で「的外れ」ということを意味しているのか、「私の内に働く神に逆らう原理」なのか、「私の言葉と行いによる過ち」なのか、区別して読む。
 


主イエスは、私たちの罪を負って十字架で死なれ、ご自身の血によって、私たちに赦しをあたえてくださった。この主イエスの血で赦された罪、それは複数形の罪「sins」。
主イエスの流された血は、私たちが犯した個々の罪を処理するもの。
 


@エペソ1:7
【新改訳2017】
1:7 このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
【協共訳】
1:7 私たちはこの御子において、その血による贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。これは、神の豊かな恵みによるものです。
【NKJV】
1:7 In Him we have redemption through His blood, the forgiveness of sins, according to the riches of His grace

【TEV】
1:7 For by the blood of Christ we are set free, that is, our sins are forgiven. How great is the grace of God,

 

その処理された罪「sins」を、神は二度と思い出されない。

キリスト者の中にも自分が過去に犯した罪の行為、その罪責観で苦しんでいる人がいる。その過去の行為の記憶、それを自分の負うべきものだと思いこんでしまっている。
だが神は、キリスト者の罪を思い出されない。
 


詩篇103:9-13
【新改訳2017】
103:8 主はあわれみ深く情け深い。怒るのに遅く恵み豊かである。
103:9 主はいつまでも争ってはおられない。とこしえに怒ってはおられない。
103:10 私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず私たちの咎にしたがって私たちに報いをされることもない。
103:11 天が地上はるかに高いように御恵みは主を恐れる者の上に大きい。
103:12 東が西から遠く離れているように主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。
103:13 父がその子をあわれむように【主】はご自分を恐れる者をあわれまれる。
【協共訳】
詩 103:8 主は憐れみ深く、恵みに満ち/怒るに遅く、慈しみに富む。
詩 103:9 永遠に争い続けることなく/とこしえに怒り続けることもない。
詩 103:10 私たちを罪に応じてあしらうことなく/過ちに従って報いることもない。
詩 103:11 天が地よりも高いように/主の慈しみは主を畏れる者をはるかにしのぐ。
詩 103:12 東が西から遠いように/主は私たちの背きの罪を遠ざける。
詩 103:13 父が子らに憐れみをもたらすように/主を畏れる者らに憐れみをもたらす。

 

 

複数形の罪「sins」は、主イエスが十字架で流された血によって、完全に赦されている。過去の罪だけでなく、将来の罪も、すべて赦されている。
*この時間の概念を越えた、神の赦しのことについては別の機会に。
 

「永遠」と「時間」 - 鳴鳩雑記

 


単数形の罪「sin」


単数形の罪「sin」は、「内住の罪」もしくは「内在の罪」。

内側にある「神に逆らう原理」また「罪のちから」。

この「内在の罪」を説明する際に、「罪の性質」という表現が使われる事が正確ではない。


「罪の性質」というときに、その性質を持っているのは「私」ということになる。この「内在の罪」は、「私」の性質ではない。

 

ローマ書には「うちに住んでいる」と書かれているとおり、これは私のうちにある「外来の異物」。
 
 @ローマ7:15-25
【新改訳2017】
7:15 私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。
7:16 自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。
7:17 ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。
7:18 私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。
7:19 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。
7:20 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。
7:21 そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。
7:22 私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、
7:23 私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。
7:24 私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
 【協共訳】
7:15 私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。
7:16 もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。
7:17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
7:18 私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。
7:19 私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。
7:20 自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
7:21 それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。
7:22 内なる人としては神の律法を喜んでいますが、
7:23 私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。
7:24 私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

 

 

良いことをしたいという願いがいつもあるのに実行できない。したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っている。キリスト者の現実の一面。

 

 

⑤罪と死の法則&いのちの霊の法則

 

私たちはこのような経験をしているのではないか?

何かを思う、考える
→ 単数形の罪(sin)の働き(罪へと引寄せる力)
→ 複数形の罪(sins)を実際に罪を犯す
→ 回心、悔い改め(神の赦しを確認する)
→  また何かを思いはじめる
 
罪へと引き寄せる力が働き、実際に罪を犯し、神の御前で回心し、赦しを確認する。だが、いずれまた同じような罪を繰り返し犯す。

 

キリスト者の内には「内在の罪」「sin」がある。


今から後も、私たちは罪を犯す。過ちを犯す。だが、それをしているのは「内在の罪」であって、「私」ではない。「内在の罪」に体を委ねてしまった責任は「私」にある。
だが、その複数形の罪「sins」を犯すのは「内在の罪」。
 


そしてキリスト者になった今も、残念ながら、まだこの体には「内在の罪」があり、いまも内側で働く。「内在の罪」がある以上、複数形の罪を犯す可能性があり続ける。

だが、それはアダムの子孫として、罪を犯していたときとは違い、キリスト者は、すでに新しい存在。


イエス・キリストの十字架死の内にあって、イエスとともに死に、イエスと共に葬られ、イエスと共に復活した存在。
 


@ガラテヤ2:19b-20
【新改訳2017】
2:19 私はキリストとともに十字架につけられました。
2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
 【協共訳】
2:19私はキリストと共に十字架につけられました。
2:20 生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。

 

*御子の信

 

「御子の信」、それが私のいのちとして、私の内に生きている。
それゆえに「内在の罪」があっても、それに優る「救い」があります。
 
アダムの内にあって罪を犯した記憶はなくとも、その結果である「死」はある。
同じように、イエスの内にあって死んで復活した記憶はないが、その結果である「いのち」がある。
 
@ローマ8:1-2
【新改訳2017】
8:1 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。
【協共訳】
8:1 従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。
8:2 キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。

 

 

「いのちの霊の法則」が、「罪と死の法則」に優る。
「罪と死の法則」は、万有引力の法則と同じように働く。
「いのちの霊の法則」は、それに打ち勝つ。

 

鳥、蝶々、蜂、カブトムシ、空中を飛行する動物にも、万有引力の法則は働いているが、彼らの「いのち」にはそれに優る法則が働いています。


同様に、キリスト者にある「いのちの霊の法則」は、「罪と死の法則」に優るもの。
 

 


⑥まとめ
 
聖書の提示する「罪」というものは、「間違い」、「悪を選ぶ」、「逆らう」といった事柄、神の言葉に背くこと、神から離れて生きること、神の主権を認めないこと、それは「的外れ」。
 
聖書の「罪」には、単数形の罪「sin」、「私の内に働く神に逆らう原理」である「内在の罪」と、複数形の罪「sins」、「私の言葉と行いによる過ち」がある。
 
複数形の罪は、イエス・キリストの血によって、すべて赦されている。
単数形の罪、「内在の罪」はまだこの体にあり、これが複数形の罪を行うように働く。
 
キリスト者には、主キリスト・イエスにある「永遠のいのち」が与えられており、「罪と死の法則」に優る「いのちの霊の法則」が働く。
イエス・キリストにある者、キリスト者が罪に定められることは決してない。
 
キリスト者は、「キリストの御体」とされた、新しい存在。
罪を犯すことはあっても「罪人」ではなく「新約の聖徒」。