I.D.F.

Independent Disciple fellowship

バプテスマを受ける際に~三重のバプテスマについて

バプテスマを受ける前に

 

バプテスマとはなんでしょう?

バプテスマとは、布の染色や、ピクルスのレシピに使われる言葉で、漬け込む、という意味です。

聖書では、この「バプテスマ」を、ひとつになること「一体化」として教えています。

 

 

②三重のバプテスマ

聖書が教えるバプテスマは、三つあります。

 

 

「キリストの御体に属するバプテスマ

@Ⅰコリント12:13【恊共訳】

1コリ 12:13 なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです。

 

これは、イエス・キリストを信じたときに受けました。

イエス・キリストを信じたときに、人の「霊」に、イエス・キリスト御自身が入ってくださり、人の「霊」はイエス・キリストとひとつになりました。

 

それは「ひとつの体となるために」と書いてあります。

これは、キリストの御体である「エクレシア」とされることであり、イエス・キリストとひとつとなっています。

 

 

「水のバプテスマ

これは前述の「キリストの御体に属するバプテスマ」を、見える世界と見えない世界に対して、公に表明することです。

 

使徒行伝2:38【恊共訳】

使徒 2:38 そこで、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。

 

メタノイア:思考の方向転換。日本語としては「思い改め」が適当。

 

 

使徒行伝8:35-8【恊共訳】

使徒 8:35 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの箇所から説き起こして、イエスについて福音を告げ知らせた。

使徒 8:36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ここに水があります。洗礼(バプテスマ)を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」?

使徒 8:38 そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼(バプテスマ)を授けた。

 

聖霊バプテスマ

これは人の「魂」に聖霊が入り、一体化されること。

聖霊は、イエス・キリストを証するための知恵と力をくださり、そのしるしとして「異言」という新しい言葉で祈る能力をくださる。この「聖霊のバププテスマ」は、「水のバプテスマ」の後で祈り求めます。

 

使徒行伝2:1-4【恊共訳】

使徒 2:1 五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、

使徒 2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。

使徒 2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

使徒 2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。

 

使徒行伝8:14-17【恊共訳】

使徒 8:14 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ遣わした。

使徒 8:15 二人は下って行って、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。

使徒 8:16 人々は主イエスの名によって洗礼(バプテスマ)を受けていただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからである。

使徒 8:17 二人が人々の上に手を置くと、聖霊が降った。

 

 

③イエス・キリストを信じるとは

イエス・キリストを信じるとは、どういうことでしょうか?

 

@ローマ1:1-4【恊共訳】

ロマ 1:1 キリスト・イエスの僕、使徒として召され、神の福音のために選び出されたパウロから――

ロマ 1:2 この福音は、神が聖書の中で預言者を通してあらかじめ約束されたものであり、

ロマ 1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、

ロマ 1:4 聖なる霊によれば死者の中からの復活によって力ある神の子と定められました。この方が、私たちの主イエス・キリストです。

 

これを私たちに分かりやすくすると、第一コリント書15:3~5に書かれている、三つのことを信じること、といえます。

 

@Ⅰコリント15:1-5【恊共訳】

1コリ 15:1 きょうだいたち、私はここでもう一度、あなたがたに福音を知らせます。私があなたがたに告げ知らせ、あなたがたが受け入れ、よりどころとし、

1コリ 15:2 これによって救われる福音を、どんな言葉で告げたかを知らせます。もっとも、あなたがたが無駄に信じたのではなく、今もしっかりと覚えていればの話ですが。

1コリ 15:3 最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、

1コリ 15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、

1コリ 15:5 ケファに現れ、それから十二人に現れたことです。

 

(1)イエス・キリストが、私たち罪のために、死なれたこと。

(2)死んで墓に葬られたこと。

(3)三日目に復活され、いまも生きておられること。

 

この三つのことを事実と認め、イエス・キリストを「主」=「神」=「救い主」として受け入れているのであれば、イエス・キリストを信じている、といえます。

 

 

 

(1)イエス・キリストが、私たち罪のために、死なれたこと。

神は、人を御自身ととともに生きるように、神のことばによって「似姿」として生きるよう意図されて、人を神の「かたち」に造られました。

 

@創世記1:26-28【協共訳】

創 1:26 神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」

創 1:27 神は人を自分のかたちに創造された。/神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された。

 

しかしながら人は、神のことばに生きることを拒み、神と共に生きることができなくなりました。これが始祖人アダムの罪であり、その罪の結果として「死」が世界に入りました。

それゆえ、すべての人は「死」の中に生まれ、死のとげである「罪」に囚われます。

 

イエス・キリストは、本来ならば私たちが受けるべき「神の怒り」を身代わりに受けてくださいました。また同時に私たちも彼の内にあって共に死んで、「罪の奴隷」としての存在から解放をあたえられました。 

 

 

(2)死んで墓に葬られたこと。

イエス・キリストは十字架の上で死なれ、墓に埋葬されました。

神は、イエスの十字架での呪われた死、また墓の葬りを、イエスの生まれる前に、預言者たちを通して教えており、 そして、そのとおりになりました。

  

 

(3)三日目に復活されて、いまも生きておられること。

イエス・キリストは、十字架に架かる前から、復活することを約束しておられました。

そして約束どおり、イエスは死に勝利して復活されました。

イエス・キリストは「いのち」そのものなので、死に勝利されました。

それは、イエス・キリストを信じる私たちが、イエス・キリストの内にあって、共に復活するためでした。イエス・キリストを信じる人は、この地上において体は死にますが、霊と魂は天に上ります。イエス・キリストを信じた人は、みな永遠の滅びから救われています。 

 

 

 

 

④どうして「水」に入るの

イエス・キリストを信じた人は、その公の表明として「水のバプテスマ」を受けるように教えられています。

水に入ることは「死ぬ」こと、水から出ることは「復活」を表しています。

 

これは、イエス・キリストの十字架の死と葬りと復活の中に、私が一体化されているということを表し、「キリストの御体に属するバプテスマ」を、目に見える形で表現したものです。

 

イエス・キリストを信じた人は、みな「新しい人」です。

 

@Ⅱコリント5:17【協共訳】

2コリ 5:17 だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。

 

@ガラテヤ6:15【協共訳】

ガラ 6:15 割礼の有無は問題ではなく、大事なのは、新しく造られることです。

*新創造/新生命体

 

「水のバプテスマ」は、「古い人」から「新しい人」に変わったことを、自分に、他の人に、公にします。

 「水のバプテスマ」は、イエス・キリストを「人の前で認める」ことのひとつです。

 

@マタイ伝10:32-33【協共訳】

マタ 10:32 「だから、誰でも人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める。

マタ 10:33 しかし、人々の前で私を拒む者は、私も天の父の前でその人を拒む。」

 

 

イエス・キリストは、この「水のバプテスマ」を喜ばれます。

エスは、すべての人をご自分の弟子とすることを願っておられ、その弟子となる事の始まりが、水のバプテスマです。

 

@マタイ伝28:18-20【協共訳】

マタ 28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。

マタ 28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、

マタ 28:20 あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

 

バプテスマの後

「エクレシア」として生きる。「新約の祭司」として生きる。「キリストの弟子」として生きる。

これにより神の創造の意図である「似姿」とされていく。