I.D.F.

Independent Disciple fellowship

2020テーマと重点②

キリスト者の地位

@背きの中に死んでいたこの私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。エペソ2:5-6

 

エペソ1:20には、「大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて」とあります。またローマ8:34では「死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」と書かれています。へブル書1:3にも「御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」とあります。

これは旧約聖書詩篇110:1にある、預言的な歌に由来しています。「主(ヤハウェ)は、私の主に言われた。あなたは、私の右の座についていなさい。私があなたの敵をあなたの足台とするまで。」

 

王の世継ぎ、皇太子が座るのが右の座です。イエスが神の右の座に着かれたということは、イエスが神の世継ぎ、相続者、として、神の権威を与えられていることを指しています

 

また、このエペソ書の御言葉によれば、私たちは、キリスト・イエスのうちにあって、神の右の座、に座しています。

「私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」です。

過去形で書かれています。座らせてくださるであろう、ではありません。

すでに、座っています。

 

また私たちが、神の右に座している、ということは、すでに「父なる神」に受け入れられている、ということです。

イエス・キリストを信じましたね、では頑張ってよい人になりましょう、努力して信仰に励みましょう、献金して、断食して、奉仕して、祈って、学んで、座れるようになりなさい、ではありません。

もはや、神に気に入られよう、受け入れられよう、という試みは不要なのです。

 

座る、ということは、安息する、ということです。あなたが椅子に座っているとき、あなたの体重を支えるのは、あなたではありません。椅子があなたを支えています。

同様に、私たちは、神がキリストにあってなされたことに、安息するのです。

神がなされた、イエスの十字架の御業に、私たちは安息します。

私たちの罪のために、イエスが十字架で死なれた、葬られた、そして、復活された、この事実に安息するのです。ここに、私たちの力があります。

始めの人アダムは、六日目に創造されました。七日目は、創造主なる神が休まれました。アダムの人生は、休むことから始まりました。これが神の望まれた、人の人生の始まりでした。

同様に、キリスト者は、休むことから、その新しい人生が始まるのです。

 

この神の安息には、すべての人が招かれています。もし、まだ神の安息を受け入れていない方がおられれば、今日、イエス・キリストにある、神の安息を受け取ってください。

 

イエス・キリストは言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28〜30)」

 

私たちの罪のために、イエスが十字架で死なれた、葬られた、そして、復活された、この事実を受け入れ、イエス・キリストをあなたの救い主として認めるなら、今日、あなたは永遠のいのち、罪の赦し、神の安息を得ることができます。今は恵みの時、救いの日、です。

 

私たちは、キリストのうちにあって、この神の右の座に座しています。

ある人は「聖書にはそう書いてあるけれども、現実ではないなあ」そう思われるかもしれません。

それは、知的な、理性的な反応で、自然なものです。

確かに、私たちは2020年の日本に、いま存在しています。

それは、この身体がある、という意味で、現実です。

 

また、ある人は、理解ができないながらも、これは嬉しい、素晴らしい、と思われるでしょう。

これは、非理性的な反応でしょうか。それとも超理性的な反応でしょうか。私は超理性的である、と考えます。

 

これは、信仰の働きです。日本語では「信仰」という言葉が、信じて仰ぐ、という言葉になってしまいますが、それは人の行為です。漢字で意味を捉えないでください。聖書の「信仰」は「霊感」や「直感」という、霊の感覚です。

知性、理性は、魂の働きであり、神が人に与えている大切な働き、機能です。

そもそも人は、霊、魂、身体(からだ)によって構成される存在です。

 

そして、人それぞれ、イエス・キリストを信じたいきさつは異なりますが、すべからく、誰もが、霊の機能によって、私たちはイエス・キリストを救い主として、受け入れたのです。

 

この御言葉は、その延長にあります。

 

 

@Ⅱペテロ1:19-20

また私たちは、さらに確かな預言の御言葉を持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗いところを照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。

 

天の御座に座っている、なんだかわかないという方は、そのままでかまいません。主と交わり、御言葉を受け入れ、ご自分の聖書理解が建てあげられていく中で、理屈ではなく、感覚で分かるようになります。