I.D.F.

Independent Disciple fellowship

2020テーマと重点③

この世の生活

 

キリスト者は、休むこと、安息することから、始まります。そして、キリストにあって安息することに力を得て、そこから次の段階、歩くことが始まります。

 

御座に座る、というのは、私たちの天における地位です。

歩くことは、その立場を実際に地上に表すことです。

 

@4:1b

あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。

@4:17c

あたがたたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。

@5:8b

光の子供として歩みなさい。

 

エペソ書は、私たちの天的な地位に基づいて、実際の地上生活でどのように振舞うか、教えています。隣人との関係、夫と妻、親と子、雇う人と雇われる人、実際の社会生活において、どう生きるか、書かれています。

 

ここで大切なことは、何がいいか悪いか、正しいか正しくないか、ではありません。

主イエスは言われました、「誰でも私に従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分のいのち(魂)を救おうと思うものはそれを失い、私と福音のためにいのち(魂)を失うものは、それを救うのです。マルコ8:34-35」

 

十字架は、死刑台です。十字架を負うことを、重荷を負って生きる、という意味で考える人が多くいますが、それは聖書的な意味ではありません。十字架を負うという事は、死刑に向かって歩く、ということで、つまり、死ぬことです。ですので、自分を捨て、自分に死んで、主イエスに従う、ということが、私たちキリスト者の生き方です。

 

ここで注意しなければならないことは、自分で死のう、としないことです。

自我の磔殺、という表現で自分に死になさい、というような間違った教えが、キリスト教にはあります。ですが、そうではありません。聖書は、そんなことは教えていません。

 

@ガラテヤ2:19b-20a

私はキリストとともに、十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

 

私はすでに死んだ、それが聖書の教えるところです。私たちは、約2000年前のイエスの十字架死にあって、ともに死んだのです。そして、ともに復活したのです。そのキリストの復活のいのちで生きている、それがキリスト者です。

ですので、実際の社会生活においても、これを告白することが大切です。

 

「主よ、あなたが私のうちに生きておられます。あなたご自身を現わしてください。」

そう祈るときに、主が働かれます。

 

これが、天の御座にあるキリスト者の、地上における生き方です。

 

キリスト者の地位は天にあり、それは事実です。また同時に、いまここにある生活は現実です。

天の御座に座っているという霊的な事実に生きるとともに、地上の社会生活の現実を生きる、それが私たちの召しです。

 

主イエスは言われました、「私は門です。だれでも、私を通って入るなら、救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」

 

私を通って入るなら救われます、そういわれる通り、人間に与えられている救いは、イエス・キリスにトよる救いしかありません。使徒行伝4:12でペテロがいうとおり、天の下でこの御名の他に、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。

 

また、「出たり入ったりして」とあります。入ったままでよろしいのではないか?と思われるかもしれません。私は思います。

祈りの中で、賛美の中で、主の臨在に触れる、包まれる、そのまま主の中に溶けてしまいたい、そう思います。でも、残念ながらそうはなりません。

私たちは、キリストを通って霊の領域に入り、父なる神のみもとに生き、またキリストを通って霊の領域を出て、この世に遣わされます。

 

主イエスは、言われました。

「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。マルコ12:17」。

主イエスは、ローマ皇帝カイザルの支配を認めました。また、その支配下で生きる現実を否定しませんでした。

 

私たちは、2020年の日本で現実に生きる社会人であり、同時に天の御座にある天国人です。

それが、私たちの召しです。

 

ただし、ローマ皇帝は、神がその時代に立てた人間にすぎません。もし彼が神に敵対し、キリストを拒むように私たちに求めるならば、私たちは神を優先し、彼には従いません。

 

かつて、日本のキリスト教会は、失敗しました。

太平洋戦争当時、教会に神棚を置き、国家神道に服したのです。皇居に向かって一礼し、神棚に向かって柏手を打ち、それから賛美歌を歌い、御言葉を使って、国体を支持したのです。

それを拒んだキリスト者は、投獄され、非国民と呼ばれ、体制に迎合したキリスト者からも非難をうけました。獄中で殺されたキリスト者もいます。これは80年ほど前の、この国の出来事です。

歴史は学ばないものの上に繰り返される、と言われます。

ですので、私たちはこれを知っておく必要があります。

もしこれからの時代、そうなったら私たちはどうしますか?あなたはどうしますか?

 

少々、脱線しました。話をエペソ書に戻しましょう。

 

ここまでで「座る」、そして「歩く」について、その意味を捉えてきました。

いよいよ、霊的武具を身に着ける、「立つ」ということについて、考えてみたいと思います。