この世の生活
キリスト者は、休むこと、安息することから、始まります。そして、キリストにあって安息することに力を得て、そこから次の段階、歩くことが始まります。
御座に座る、というのは、私たちの天における地位です。
歩くことは、その立場を実際に地上に表すことです。
@4:1b
あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。
@4:17c
あたがたたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
@5:8b
光の子供として歩みなさい。
エペソ書は、私たちの天的な地位に基づいて、実際の地上生活でどのように振舞うか、教えています。隣人との関係、夫と妻、親と子、雇う人と雇われる人、実際の社会生活において、どう生きるか、書かれています。
ここで大切なことは、何がいいか悪いか、正しいか正しくないか、ではありません。
主イエスは言われました、「誰でも私に従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分のいのち(魂)を救おうと思うものはそれを失い、私と福音のためにいのち(魂)を失うものは、それを救うのです。マルコ8:34-35」
十字架は、死刑台です。十字架を負うことを、重荷を負って生きる、という意味で考える人が多くいますが、それは聖書的な意味ではありません。十字架を負うという事は、死刑に向かって歩く、ということで、つまり、死ぬことです。ですので、自分を捨て、自分に死んで、主イエスに従う、ということが、私たちキリスト者の生き方です。
ここで注意しなければならないことは、自分で死のう、としないことです。
自我の磔殺、という表現で自分に死になさい、というような間違った教えが、キリスト教にはあります。ですが、そうではありません。聖書は、そんなことは教えていません。
@ガラテヤ2:19b-20a
私はキリストとともに、十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
私はすでに死んだ、それが聖書の教えるところです。私たちは、約2000年前のイエスの十字架死にあって、ともに死んだのです。そして、ともに復活したのです。そのキリストの復活のいのちで生きている、それがキリスト者です。
ですので、実際の社会生活においても、これを告白することが大切です。
「主よ、あなたが私のうちに生きておられます。あなたご自身を現わしてください。」
そう祈るときに、主が働かれます。
これが、天の御座にあるキリスト者の、地上における生き方です。
キリスト者の地位は天にあり、それは事実です。また同時に、いまここにある生活は現実です。
天の御座に座っているという霊的な事実に生きるとともに、地上の社会生活の現実を生きる、それが私たちの召しです。
主イエスは言われました、「私は門です。だれでも、私を通って入るなら、救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」
私を通って入るなら救われます、そういわれる通り、人間に与えられている救いは、イエス・キリスにトよる救いしかありません。使徒行伝4:12でペテロがいうとおり、天の下でこの御名の他に、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。
また、「出たり入ったりして」とあります。入ったままでよろしいのではないか?と思われるかもしれません。私は思います。
祈りの中で、賛美の中で、主の臨在に触れる、包まれる、そのまま主の中に溶けてしまいたい、そう思います。でも、残念ながらそうはなりません。
私たちは、キリストを通って霊の領域に入り、父なる神のみもとに生き、またキリストを通って霊の領域を出て、この世に遣わされます。
主イエスは、言われました。
「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。マルコ12:17」。
主イエスは、ローマ皇帝カイザルの支配を認めました。また、その支配下で生きる現実を否定しませんでした。
私たちは、2020年の日本で現実に生きる社会人であり、同時に天の御座にある天国人です。
それが、私たちの召しです。
ただし、ローマ皇帝は、神がその時代に立てた人間にすぎません。もし彼が神に敵対し、キリストを拒むように私たちに求めるならば、私たちは神を優先し、彼には従いません。
かつて、日本のキリスト教会は、失敗しました。
太平洋戦争当時、教会に神棚を置き、国家神道に服したのです。皇居に向かって一礼し、神棚に向かって柏手を打ち、それから賛美歌を歌い、御言葉を使って、国体を支持したのです。
それを拒んだキリスト者は、投獄され、非国民と呼ばれ、体制に迎合したキリスト者からも非難をうけました。獄中で殺されたキリスト者もいます。これは80年ほど前の、この国の出来事です。
歴史は学ばないものの上に繰り返される、と言われます。
ですので、私たちはこれを知っておく必要があります。
もしこれからの時代、そうなったら私たちはどうしますか?あなたはどうしますか?
少々、脱線しました。話をエペソ書に戻しましょう。
ここまでで「座る」、そして「歩く」について、その意味を捉えてきました。
いよいよ、霊的武具を身に着ける、「立つ」ということについて、考えてみたいと思います。