天の御座にある神聖な地位~Our Divine Position on Heaven’s Throne
@エペソ2:5‐6 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
今日は、エペソ人への手紙2章5節6節から、御言葉の交わりを持ちたいと思います。
テーマは、天の御座にある神聖な地位、です。
聖書箇所をお読みします。エペソ人への手紙2章5-6節です。
前回、オーガニックチャーチ、という言葉に触れました。
有機体としての教会、生命現象としての教会、それはとても大切な考え方です。
そこで今日は、私たちキリスト者、私たち教会が、いただいている特別な地位について、聖書から確認したいと思います。
自分がどのようなものであるのか、それを知ることはとても大切なことです。
私たちは、地上においてはただの一般庶民ですが、天においては特別な存在です。
それを知ることは、私たちの地上での在り方、生き方に影響をあたえます。
今日のポイントは、ふたつです。
よみがえったこと、座ったこと、この2点を聖書から確認しましょう。
では、始めます。まずふたつの御言葉を確認します。まずはマタイ伝です。
@マタイ26:64
イエスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」
これは私たちの主イエスが、十字架に架かる前、ユダヤ議会の尋問の際に、ご自身の復活後の昇天と再臨を語った言葉です。
力ある方、というのは、創造主、全能者、私たちの父なる神です。では次にへブル書から。
@ヘブル1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。
これは御子であるイエス・キリストが神であられること、そのちからと権威、なされた働き、そして昇天された御子の地位について教えています。
ふたつの御言葉を読みましたが、イエス・キリストが神の「右の座」につかれたことを、新約聖書は繰り返し伝えています。
この新改訳2017では、主イエスが神の「右の座」につかれたことを14回、伝えています。
これは旧約聖書・詩篇110篇にある、預言的な詩篇の歌に由来しています。
@詩篇110:1主(ヤハウェ)は、私の主に言われた。あなたは、私の右の座についていなさい。私があなたの敵をあなたの足台とするまで。」
イエスが神の右の座に着かれたということは、主イエスが権威と名誉を、父なる神から与えられていることを意味しています。
そしてエペソ2:6では「私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」と書かれています。
つまり、私たちは、キリスト・イエスとともに天上に座わった、とされています。
これは原語のギリシャ語では、決定的過去、という書き方で書かれています。
それは、過去にあった一度きりの事実、ということを意味しています。
ということは、私たちは、天において、キリストとともに、父なる神の右の座に座った、と聖書は伝えています。
やがて座らせてくださるであろう、ではなく、座らせくださいました、です。
すでに座った、座っている、これが聖書の提示するところです。
【本論】
さて「右の座」とは、権威と名誉を意味している、とお伝えしました。
私たちの主イエス・キリストは、最も高い権威、最も優れた名誉をもっておられます。
ピリピ人への手紙からこのことを確認しましょう。
@ピリピ2:6-11 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
こう書かれているとおりです。
天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの、というのは、イスラエル文化の表現では、万物、を意味しています。
言い換えるなら、全世界、全被造物、神羅万象、を意味しています。
すべての名にまさる名、というのは、この世界にあるすべてにまさって、高い地位、高い身分、高い権威が、イエス・キリストにある、ということです。
そして聖書はいいます、神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
では、どういうことがいえるでしょうか。
私たちクリスチャン、私たち教会は、すべての名に勝る名を持つイエス・キリスト、最も高い権威と名誉を持つイエス・キリスト、このお方とともに、神の「右の座」に座った、ということになります。
キリストとともに、父なる神の「右の座」に、座っている、それが私たちの地位です。
なぜそんなことが起こりえるのでしょうか。
それは、私たちが、イエス・キリストの十字架死の内にあって、彼とともに死に、彼とともに葬られ、彼とともに復活し、今は彼のいのち、復活のキリストのいのちで、生きるものとされているからです。
@ローマ6:3-5 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
今年4月に洗礼式がありましたが、あの洗礼式は、水のバプテスマ、とも呼ばれる儀式です。
バプテスマとは、布を色に染める、染色を意味する言葉であり、一体化を教えています。
あの儀式は、水に漬かるときにキリストの内にあって死んだことを表し、水から上がるときにキリストともに復活したことを表しています。
あの儀式は、キリストへの信仰、キリストへの献身の公の表明であり、イエス・キリストを信じたときに起こったことを、目に見える形で再現したものです。
イエス・キリストが私の罪のために死なれたこと、葬られたこと、復活されたことを事実と認め、このイエス・キリストを「救い主」として受け入れたときに、私たちはアダムの子孫として、生まれながらの人として、死にました。
そして、イエス・キリストの復活の内にあって、私たちは創造主である父なる神の前に、生きるものとなりました。
@ガラテヤ6:14‐15 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
この「新しい創造」は、「new crature」「新生命体」とも訳せる言葉です。
私たちクリスチャン、私たち教会は、キリストの復活のいのちで生きる新しい創造です。
キリストの復活の霊で生きる、新生命体です。
もちろん、身体はアダムに由来する身体です。
頭の中身、脳みそもこれまでとも変わりありません。
キリストの再臨まで、キリストが天から戻ってこられるときまで、この身体で生きなければなりません。
ですが私たちの内には、キリストの霊が住んでおられるのです。
@ローマ8:9‐10 【新改訳2017】
しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。
私たちは、「キリストの霊」をいただいています。
これは、「御子の霊」です。
これは、「復活のいのち」です。
この事実により、私たちクリスチャンは、私たち教会は、神の御前に生きているのです。
それは、特別な地位をいただいている、ということです。
@ローマ8:15【新改訳2017】
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
私たちが、アダムの子孫、アダム生命体、として生きているときには、私たちの霊は死んでおり、魂と身体だけで生きる存在であり、滅びるべきもの存在でした。
ですが今は、キリストの霊、復活のいのちにより、私たちの霊が機能し、魂と身体を用いて、永遠に生きる存在です。
これが、今日のポイントのひとつ、よみがえった、ということです。
さて、次に「共に座らせてくださいました」の「座った」こと、「座っている」ということを考えてみましょう。
「座る」ということは、休む、休息する、安息する、ということです。
あなたが椅子に座っているとき、あなたの身体、あなたの重さを支えているのは、あなたではありません。
椅子があなたを支えています。
同様に私たちは、神がキリストにあってなされたことがらに、支えられています。
私たちの行いではなく、神がなされたイエス・キリストの十字架の御業に、私たちは安息しています。
私たちの罪のために、イエスが十字架で死なれた、葬られた、そして、復活された、この事実に安息しているのです。
イエス・キリストは言われました。
@マタイ11:28〜30「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
キリストの御業に休むこと、ここに、私たちの力があります。
始めの人アダムは、神の創造の御業の六日目に、創造されました。
そして七日目は、神が創造の御業を休まれた日です。
ですので、アダムの人生は、神の休息、神の安息に生きることから始まりました。
これが神の望まれた、本来の人の人生です。
同様に、私たちキリスト者、私たち教会は、神の御業、十字架の御業に休むことが、神の望まれる在り方です。
これが今日のポイントのふたつめ、座っている、です。
【結論】
ここまでの事柄を整理しましょう。
私たちクリスチャン、私たち教会は、彼とともに死に、彼とともに復活し、彼のなされた御業に安息して、彼とともに父なる神の「右の座」に座った、聖書はそう教えています。
さて、この真理は今日の私たちになにを教えるでしょうか。
今日の私たちにどう適用することができるでしょうか。
第一に、私たちは完全に受けいれられている、という事実を知ることができます。
私の過去がどうであれ、あなたの過去がどうであれ、私たちの現在の状況がどうであれ、全く問題ありません。
イエス・キリストにより、私たちは父なる神に完全に受け入れられています。
@Ⅱコリント5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
私たちの過去はすべて、2000年前の十字架に磔にされて、終わっています。
そして今は、御子の霊、キリストの霊を受けて、すべてが新しい。
これが聖書の教える事実、聖書の教える真理です。
第二に、思い描いてください。
あなたが天の御座にすわっている姿です。
あなたの足元には、森羅万象、神の創造された世界が広がっています。
あなたの座は、それらの上に置かれています。
あなたの周りには天の軍勢、数えきれない御使いたちが整列しています。
それらはみな、あなたの隣に座している方、創造主、万軍の主、全能者、父なる神に目をむけています。
そこであなたは、父なる神に、親しく呼びかけることができます。
@ガラテヤ4:6 そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。
アバ、父ちゃん、パパ。
あなたがそう呼び掛けると、父なる神はあなたに目を向けられ、あなたの言葉を喜んできいてくださいます。
これが、エペソ2:6が教える、私たちの立場です。
キリスト者の地位、教会の立場は、ここにあります。
これは、霊の領域における現実、天における事実、です。
私たちキリスト者の、私たち教会の、神聖な地位です。
どうぞ、この御言葉を、ご自分の魂に語り、祈り、思いめぐらし、味わってください。
先週のメッセージで「天の王なる神」について、私たちは学びました。
天の王なる神は、私たちの避難所であり、砦であり、全世界の統治者である、と語られました。
私たちは、その天の王なる神の子とされ、その右の座に座っているのです。
私は、あなたは、教会は、「御子の霊」、「キリストの霊」により、完全に受け入れられています。
父なる神の、完全な愛、掛けるところのない愛は、あなたのものです。
ですので、その父なる神の愛を受けて、神の「右の座」から「アバ、父よ」と祈ることができるのです。
そうして、神の御心が地上に現われることを期待していきましょう。
神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
この御言葉の真理が、今日、私たち教会の現実、事実、真実となりますように。