I.D.F.

Independent Disciple fellowship

十字架の二面性③

「内住の罪」への対処「包括の原理」

 

「包括の原理」
エスの内に置かれ、その死と復活に伴われ、新しい人として生かされる。

 

ヘブル7:9-10にあるように、神は時間と空間を超越して存在しておられるので、アブラハムの子孫の誕生前に、そこにいたと見ておられる。

同様に、すべての人類は、アダムの違反の際に、彼の腰の内に存在していた。
また、イエス・キリストを「救い主」として受け入れた人を、キリストの内にあってともに死んだものと見なされ、また彼の復活の内にあってともに生きているもの、とみなされる。

 

@ローマ6:6-8
【協共訳】6:6私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。6:7 死んだ者は罪から解放されているからです。6:8 私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

 

始祖人アダムが罪を犯した際、創造主は皮の衣を作り、裸を覆ってくださった(創世記3:21)。

 

皮の衣①:死に包まれている
*「系列の転換」
アダム系列にある「罪の奴隷」を殺し、キリスト系列にある「義の奴隷」に復活させる。

 

@Ⅰコリント15:21-22
【協共訳】15:21 死が一人の人を通して来たのだから、死者の復活も一人の人を通して来たのです。15:22 つまり、アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになるのです。
 
@ローマ 6:3-8
【協共訳】6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたのです。6:4 私たちは、洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。6:5 私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう。6:6 私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。
6:7 死んだ者は罪から解放されているからです。6:8 私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 

 

アダム系列の「私」は死んだ、というのが聖書の語る客観的事実。
キリストと一体となったことにより、新しい被造物とされた存在、これがキリスト者である。
新しい神に従って生き、神にあって生き、神とともに生き、神とひとつとして生きる、ことは、新しいいのちにある生き方。
 
@ガラテヤ6:14‐15
【協共訳】6:14 しかし、この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この方を通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです。6:15 割礼の有無は問題ではなく、大事なのは、新しく造られることです。
 
この「新しく造られる」は別訳では「新生命体」。

アダムに属する「いのち」で生きているのではなく、復活のイエス・キリストに属する「いのち」で生きている存在が、「新生命体」であり、復活された「キリストの霊」を受けて生きている。

 

人は、アダムの腰の中にいた故にアダムの罪の結果である「死」と一体になった。

同様にキリスト者は、キリストの十字架死の内にあって、共に死に、共に復活した存在として、復活のキリストの「いのち」と一体になっている。

それゆえに父なる神は、キリストの内に私を見る。
 

皮の衣②:死を覚えさせる

*アダム系列 → 創世記2:17「死にながら死ぬ」という定めを絶えず思わせる。
「死」は、罪のまま生き続けないための、神の憐れみ。

*キリスト系列 → 自分の十字架を負う歩み (ルカ9:23-24「日々、自分の十字架を負い」)
「死」は、復活のいのちで生きるための、神の与えられた方法。

 

ヨハネ伝15:4-5
【恊共訳】15:4私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。15:5私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。

 

イエス・キリストはぶどうの木であり、キリスト者はその枝である。キリストのよみがえりのいのちが、枝である私に流れ込むことにより、生かされる。キリストのいのちにあって、枝を伸ばし、葉を茂らせ、実をつける、これがキリスト者である。
 

必要なことは、「魂的な私」を放棄すること。それは、物事、事象に執着しないこと。
→ 積極的な御言葉への関与 「魂の再条件付け」による、神への安息。
 
 安息とは、魂の状態である。

書かれている御言葉に従う意志、決断、行動がないのは、ただの安楽であり、なまけもの。(箴言参照)。
 
クリスチャンが陥りやすいことのひとつに、「受動的態度」がある。御心のみを行う、という美しい態度に見受けられるが、実際には「霊」が「魂」を支配せず、神に対して冷淡になり、敵に対して無防備になる。「魂」を主体とする生き方は誤りだが、「魂」を支配しない生き方もまた誤りである。


私を通してキリストが生きてくださることを認め、「私」を放棄するとき、キリストの「いのち」が、キリスト者から流れ出る。

 

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