I.D.F.

Independent Disciple fellowship

ことばによって生きる

私たち人間は、言葉によって、生きています。

人は、言葉を使わなければ、生活していくことができません。

思いや感情を、私たちは言葉で伝えます。さまざまな情報を文字や音声で発信し、受け取りますが、そこには言葉があります。

 

もし、人に言葉がなければ、どうなるでしょうか。

人間は言葉がなければ生きていけない、ということがすでに実験されています。

神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世という皇帝が、50人の赤ちゃんを集め、赤ちゃんに目を合わせず、笑いかけず、言葉を掛けないで育て、始めに何語を話すのか、実験したそうです。

結果は、49人が3歳までに死に、残った一人は6歳で死んでしまいました。

 

言葉は、私たち人にとって、とても大切なものです。そこで、私たちの基準である聖書、人生の土台である聖書は、ことばについて、どのように教えているのか、確認してみたいと思います。

まずは旧約聖書のはじめ、創世記にはこう書かれています。

 

@創世記1:3【新改訳2017】

神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。

 

創世記は、神がご自身の言葉で世界を創造されたことを記録しています。

そして新約聖書では、そのことを「この世界が神のことばで造られた」と明記しています。

 

@へブル11:3【新改訳2017】

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。

 

神が世界を造られたということは、私たち人も、神によって造られた存在であるということです。

 

@創世記1:26-27【新改訳2017】

神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

 

この箇所では、「神は人をご自身のかたちとして創造された」「神のかたちとして人を創造し」と、人が神の「かたち」であると、2回記述されています。同じことが2回繰り返して記述されている、ということはその重要性を意味しています。そして「かたち」として創造されたことは強調されていますが、「似姿」であることは記述されていません。どうしてでしょう。

それは、人が神の「似姿」になるのは、人が神の「ことば」に生きることにより、神の御性質を経験として学び、身に着けていくときに、創り上げられるものだからです。

 

神は、人にとって最善の環境を整え、人になすべき働きを与え、人が神とともに、神のことばによって生きるように、人を神の「かたち」に創造されました。

 

では、どのようなことばが、人に与えられたのでしょうか?

 

@創世記1:28【新改訳2017】

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

 

生めよ、増えよ、地に満ちよ、というのは、繁栄と拡大の祝福であり、命令です。

また地を従えよ、というのは、神の造られた世界を、神の代理人として管理することです。

そしてこの言葉に加えて、もうひとつの言葉が与えられました。

 

@創世記2:16-17【新改訳2017】

神である【主】は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。

しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 

このふたつが、人に与えられた神のことばでした。このことばの中に生きていれば、それでよかったのです。ですが、残念なことに人は失敗しました。

 

@創世記3:1-3【新改訳2017】

3:1 さて蛇は、神である【主】が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」

3:2 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。

3:3しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」

 

ここで注意していただきたいのは、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』という女の言葉は、神の言葉では、ありません。

これは、人の言葉です。

神のことばは「触れてはいけない」とは言っておりません、これは人が付け加えた言葉です。

また、神のことばは「必ず死ぬ」であり、「死ぬといけないからだ」ではありません。

 

悲しいことに、人が神の言葉に生きるのではなく、自分の言葉、人の言葉で生きるとき、私たちは過ちを犯します。いま世界中に、不幸なニュースがあり、戦争や経済不安のうわさがあります。

これらはすべて、人が神の言葉ではなく、自分たちの言葉、人の言葉によって生きていることの結果です。

そして、これらの不幸がある責任は、男であるアダムにあります。

神のことばを直接受けたのは、アダムです。女であるエバが答えた言葉に、『』が使われている意味はなんでしょうか。エバはこの言葉を、伝えられたままに話している、ということです。

エバは伝えられて知っていることを、蛇に応えたのです。

では、エバは誰から伝えられたのでしょうか。エバに神の言葉を伝える人は、ひとりしかいません。

アダムです。彼はエバに神の言葉を伝える際、不正確に、自分の考えを入れて伝えていました。

エバに「食べると必ず死ぬ」ということを教えることが、彼には求められていました。

ですが、アダムはそうすることができませんでした。

また残念ながら、彼はエバが禁じられた木の実を食べるとき、それを見ていたのに何も指摘せず、様子を見つつ、自分もそれを食べたのです。

 

人が神の言葉を退け、神に逆らった結果、人が神の似姿になる、という神の創造の計画は、頓挫することになりました。そこから、人間の罪の歴史が始まりました。

 

その人の罪の歴史に終止符を打ち、神の創造の計画を回復させたのが、私たちの主イエス・キリストです。このイエス・キリストは、人としてはユダヤ人から生まれましたが、同時に、彼は神の「ことば」である、と聖書は伝えています。

 

ヨハネ伝1:1-3【新改訳2017】

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

 

聖書は、イエス・キリストご自身が「ことば」である、と明言しています。

この「ことば」である方、神ご自身である方が、イエスという人となり、人として悪魔の誘惑に勝利し、罪のない、失敗のない、完全な人として、罪のある、失敗に満ちた、不完全な私たち人間の贖い、救い、赦しのために、十字架で死なれ、葬られ、復活されました。

 

そして、彼はイエス・キリストを救い主として認めた人、イエス・受け入れた人を、ご自分とひとつとしてくださいました。

ひとつとされていることについて、聖書から確認しておきましょう。

 

ヨハネ15:5【新改訳2017】

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

 

ぶどうの木と枝は、同じ命を共有しています。そのように、私たちはキリストと同じいのちを共有するものとなっています。

そして、このキリストとひとつとされている、ということが、私たちの救いであり、この救いによって、ふたたび人には創造の目的、神の似姿、という神の願いが実現していきます。

 

アダムは、「善悪の知識の木の実を食べてはいけない」という言葉に生きることが求められていましたが、私たちには、「神のことば」そのものであるお方、イエス・キリストにあって生きることが、求められています。そのために、まず復活のキリストご自身が、私たちの内に住まわれています。これは、神のなさった不思議な方法、人の理解を超越した業、です。

 

そしてキリストが内に住んでくださっている私たちが、キリストにあって生きるということは、具体的に、実際的に、どうすればいいのでしょうか。それは一言でいえば、聖書の言葉で生きることです。

 

私たちは生まれてきてからずっと、世の言葉を聞き、人の言葉を受けて、生きています。

たとえば、あなたは偶然に生まれた、誰かに望んで生まれたわけでもなく、目的もなく生まれ、目的もなく死んでいく、という言葉がありす。

 

また悲しいことに、自分の親から愛されなかった、関心を受けなかった、大切にされなかった方もいます。お前なんか生まなければよかった、お前がいたから大変だった、存在を喜ばれない、そんな言葉があります。

 

学生には学生の生活にあって、社会人には社会人の生活にあって、自分を認めず、受け入れず、否定するような言葉がたくさん聞こえてきます。人より秀でていれば、成績がよければ、有能であれば、美しければ価値があり、そうでなければ、あなたには価値はない、という言葉です。

 

そうした言葉の蔓延するこの世において、自分が生き残ること、自分が得ること、自分が満足することが、正義となります。自己中心の価値観の言葉が、この世の言葉です。

 

こうした言葉が蔓延することを、聖書はあらかじめ伝えています。

 

@Ⅱテモテ3:1-5【新改訳2017】

3:1 終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。

3:2 そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒?し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。

3:3 また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、

3:4 人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、

3:5 見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。

 

 

@Ⅰヨハネ4:5-7【新改訳2017】

4:5 彼らはこの世の者です。ですから、世のことを話し、世も彼らの言うことを聞きます。

4:6 私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。

 

聖書は、あなたは望まれて生まれた、目的をもって生まれてきた、天地万物、神羅万象、時間の始まりから終わりまで所有される創造主が、あなたがこの時代に生きることを望んだ、だからあなたはここにいる、という伝えています。それどころか、死んでいくときでさえ目的がある、それはこの体を離れてイエス・キリストとともにいることだ、と教えています。

 

そして、創造主なる神は、この世の否定的な、攻撃的な、破壊的な、偽りの言葉から私たちを解放し、肯定し、受け入れ、建て上げ、将来と希望を与える、聖書の言葉に生きるように、願っておられます。

神の言葉である聖書によって、考え、判断することが、私たちの生活であり、人生です。

 

@へブル4:12【新改訳2017】

4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

 

私たちは、神の似姿になることを意図されています。

それは、神秘的な人になることでも、宗教熱心な人になることでも、ありません。

それは、神のことばによって生きる人、聖書の言葉によって生きる人、です。

 

世間的にはどこにでもいるような、お兄さん、お姉さん、おじさん、おばさん、一般庶民です。

ですが、聖書の御言葉によって生きる人、聖書の言葉で考える人、聖書の言葉で判断する人、それが神が願っておられる人の在り方、私たちのあるべき姿です。

 

@コロサイ3:16【新改訳2017】

3:16 キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

 

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。

この言葉を覚えて、今日を終え、新しい明日を迎えましょう。