I.D.F.

Independent Disciple fellowship

初歩の教え① 序論

このエクレシアは、今日で4回目の交わりになります。

 

1 回目は、ことばによって生きる、というテーマで、ことばの大切さについて、聖書から確認し ました。 2 回目は「過ぎ越しの日」に合わせて、パン裂きについて、聖書から確認しました。 3 回目は、罪について、聖書の教える「罪」というものは単数形の罪と複数形の罪があることを、 確認しました。 今日からは、「初歩の教え」をテキストにして、御言葉の交わりを持っていこうと考えています。 この「初歩の教え」と呼ばれるものは、新約聖書へブル人への手紙に書かれている内容です。 聖書が「初歩の教え」という記述を提示しているということは、私たちが聖書を理解していく上 で、とても大切な、基礎となる部分、土台となる教え、であるはずです。 ですので、この「初歩を教え」を聖書から学んでいきたいと願っています。

 

はじめに、改めてお伝えしておきます。 男性対象のスモールグループでもお伝えしていますが、このエクレシアで御言葉を語り、聖書を 理解していくことの目的は、健全であること、健やかであること、です。 正しさ、ではありません。健やかさ、です。 正しさは、偽ることができます。言葉を巧みに使い、装い、偽ることは可能です。 ですが、健やかさは、偽ることができません。 病んでいる人は、見てわかります。病んでいる人は、健やかさを現わせません。 宗教は正しさを偽ることができますが、健やかさは偽れません。

 

もちろん、私は正しい聖書理解を持ちたい、そう願っています。 そして、自分で間違っていると思うものを、皆さんに分かち合うようなことはしません。当たり 前の話です。整合性のある聖書理解、そう考えているものを、お伝えしています。

 

 ですが、私には限界があります。 ヘブル語を読めますか、ギリシャ語を読めますか、英語を読めますか、自然科学を学ばれました か、物理学を学ばれましたか、世界史を学ばれましたか、中近東の古代史を学ばれましたか、哲 学を学ばれましたか、弁証論を学ばれましたか、心理学は学ばれましたか、キリスト教神学を学 ばれましたか。 答えはすべて、いいえ、です。

 

ただ、イエス・キリストを知っていますか、という質問には、はい、と答えます。 彼は、私の所有者であり、私は彼の所有物です。彼は、私の羊飼いであり、私は彼の羊です。 彼は、私の先生であり、私は彼の弟子です。

 

私がイエス・キリストを知っている、というのは、私が海を知っている、ということに似ています。 私は、この地球上の海水の量がどれくらいあるのか、知りません。 その成分がどうなっているのか、知りません。北極と南極と赤道直下、その温度差を知りませ ん。どれくらいの生命がその中にいるのか、それも知りません。 ですが、その塩辛さを知っています。波の音を知っています。暖かい海と、冷たい海を知ってい ます。心地よい波と、恐ろしい波を知っています。 そのように、私はイエス・キリストを知っています。そして多くの方に同じようにイエス・キリストを知って いただきたいと願っています。

 

 私が願う、健全であること、というのは、イエス・キリストとの個人的な関係性の中で、ひとりひ とりが聖書を読み、理解し、その内容を受け止めて、実際の生活の中で、実践する、ということ です。 理屈ではなく実践です。宗教ではなく生活です。その中には、喜びがあり、いやしがあり、解放 があります。また、悲しみがあり、痛みがあり、悔い改めがあります。そうして、私たちはキリス トにあって、成長していきます。

 

「成長」という言葉は、コロサイ1:10、Ⅱペテロ3:18などに、出てきます。

 

さて、聖書にこう書いてあります。

 

 @エレミヤ31:31ー34【新改訳 2017】 31:31

 見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およ びユダの家と、新しい契約を結ぶ。 31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼 らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破っ た──【主】のことば──。 31:33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のこと ば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは 彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 31:34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教 えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ ──【主】のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないから だ。」

 

これはイスラエルに約束された「新しい契約」であり、イエス・キリストによって実現しました。で すので、「キリスト契約」とも呼ばれます。 私たちは、この契約に加えてもらいました。 律法は旧約聖書に書かれている「神の教え」です。その律法を心に書き記す、そう書かれていま す。そして、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない、 とあります。 この主は「ヤハウェ」、天地万物の創造主です。この方を、身分の低い者から高い者まで、あらゆ る人が知るようになる、そう書かれています。 イエス・キリストによって、ひとりひとりが神の教えを知る、それが神の願いです。 これが完全に実現するのは、主イエスの地上再臨のときですが、私たちキリスト者、エクレシア には、それがすでに与えられています。

 

@Ⅰヨハネ2:20-27【新改訳 2017】

 2:20 あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、みな真理を知っています。 2:21 私がこのように書いてきたのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知 っているからです。また、偽りはすべて、真理から出ていないからです。 2:22 偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御 子を否定する者、それが反キリストです。 2:23 だれでも御子を否定する者は御父を持たず、御子を告白する者は御父も持っているの です。 2:24 あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい。もし初めか ら聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどまります。 2:25 これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。 2:26 私はあなたがたを惑わす者たちについて、以上のことを書いてきました。 2:27 しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれ かに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてく れます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子の うちにとどまりなさい。

 

この箇所の「注ぎの油」ですが、ほとんどの日本語聖書では「注ぎの油」と訳されていますが、岩 波訳聖書では「塗り油」と訳されていて、そちらが適切です。

 

「塗り油」と「注ぎの油」は別のものです。あとで説明します。 この「塗り油」は。羊飼いである主イエスから、彼の羊として、油を塗っていただく、塗り油、です。 羊を病気や寄生虫から守る薬として、塗り油が使われました。軟膏、ワセリン、そういった塗り 油です。 その結果、だれかに教えてもらう必要はない、その「塗油」が、すべてについてあなたがたに教 えてくれる、そう書かれています。

もちろん、その前に「あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい。 もし初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどま ります」、とあるので、初めに聞く、ということは大切です。

 

そして、信仰は聞くことから始まる、聞くことはキリストの言葉による、とローマ10:17にあり ます。

ですので、この時間、私を通して語る、キリストの言葉を受け取ってくだ さい。 聞きながら、霊を用いてください。主よ、この言葉はあなたからのものですか?受け入れるべ き言葉ですか?そう主に訪ねながら、聞いてください。 そして、私の言葉を捨ててください。 主があなたに与える言葉は、あなたの内に残ります。

 

ヨハネ6:63【新改訳 2017】

6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話 してきたことばは、霊であり、またいのちです。

 

ここまで、よろしいでしょうか。 先に進みます。

 

@へブル5:12~6:13【新改訳 2017】 5:12 あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が 告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食 物ではなく、乳が必要になっています。 5:13 乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。 5:14 固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。 6:1 ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうで はありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、 6:2 きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的 なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。

 

まず「年数からすれば教師になっていなければならない」という指摘についてですが、これは必 ずしもすべての人が、聖書を教える働きをする、ということではありません。

ヤコブ書3:1「多くの人が教師になってはいけない」と書かれています。 またエペソ書4:12には、キリストが昇天の後にエクレシアに与えた賜物としての働きに「教師」 があります。賜物というものは、贈り物、です。教える賜物をいただいている人と、そうでない 人がいます。 ですので、すべての人が「教師」として、聖書を教える働きをするわけではありません。

ここで指摘しているのは「教師になれるくらいの時間を過ごしているのに、まだそれほどわか っていない、それってよろしくないよね」ということです。

 

 人はみな、歩けない、話せない、無力な存在として、赤ちゃんとして生まれてきます。 生まれてから、ミルクを飲んで飲んで飲んで、成長します。 そして少し成長すると、離乳食が始まります。それからやがて、歯が生え、咀嚼することを覚え、 固形物を食べることができるようになります。 キリスト者の成長も同じようなものです。キリスト者も同じように、成長するためには、御言葉 の乳、ミルクが必要です。 はじめは理解しやすい、受け入れやすい御言葉で、成長します。

 

そして、御言葉の意味をとらえ、自分の知性、感情、意思、に適用していくこと、日常の生活の 中で実践していくことで、「善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人」へと成長し ていくことに、つながっていきます。

 

私たちは御言葉を読み、それを実践して成長していきます。自分で聖書を読み、自分で聖書を 理解していくための基礎、土台、それが今日から始める「初歩の教え」です。

 

@へブル 6:1【新改訳 2017】

 6:1 ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうでは ありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、 6:2 きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的 なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。

 

やり直したりしないように、と書かれていますが、そもそもこの「初歩の教え」を教えられたこと があるでしょうか?あまりきちんと教えられていないのではないでしょうか? これはユダヤ教の教えに関することで、クリスチャンには直接の関係がない、という捉え方も あるようです。なので、教えられないのかもしれません。

ですが、ここで書かれている内容を、聖書が伝える内容と照らし合わせてみると、とても大切 な内容ばかりですので、私はユダヤ教の教えではなく、キリスト者の教えだと考えています。 そして、へブル人向けの手紙では「初歩」とされていても、この手紙が書かれてから約 2000 年後の日本、エルサレムから遠く離れた東の果ての日本、時代も文化も異なる私たちにとって は、なかなかに難しい内容かもしれません。でも、ひとつひとつが大切であり、時間を掛けて学 んでいく必要のあるものです。

 

ここまでよろしいでしょうか?

 

 

初歩の教えの内容は、7つあります。①キリストについての教え、②死んだ行いからの回心、③ 信仰、④清めの洗い、⑤手を置く儀式、⑥死者の復活、⑦永遠の裁き、です。

 

そして、今から「キリストについての教え」に入っていきたいと思います。

 

まず、イエス・キリストのいう呼び方、呼ばれ方です。

 

エスは人としての個人名です。当時のイスラエルでは苗字はないので、住んでいる地域の名 前と一緒に「ナザレのイエス」と呼ばれたり、父親の名前と一緒に「ヨセフの子イエス」と呼ばれ たりしていました。

 

そして「キリスト」は、「油注ぎ」「油注がれた人」という言葉で、神に任命された特別な働きをす る人、を意味しています。このキリストはギリシャ語での呼び方です。ヘブル語でメシアといい ます。 神に任命された特別な働きとは、王、祭祀、預言者、です。つまり、旧約聖書に出てくる王、祭祀、 預言者はみなキリストです。そして、それは本当のキリストである、ナザレのイエス、ヨセフの子 イエス、このお方の働きを表わす人々でした。予表、ひな形、影、という言葉で表現される、これ から来る本物をあらかじめ指し示す、そういった働きです。

そして、このキリスト、「油注ぎ」というのは、ナザレのイエスにおいて成就して、完了しています。

福音書のイエスは、預言者として宣教しました。 昇天して御座におられるイエスは、祭祀として祈っておられます。 そして黙示録にあるように、イエスはやがて王として戻ってこられます。

 

旧約時代に「油注ぎ」を受けた、王、祭祀、預言者は、イエス・キリストの予表、ひな形としてを、 彼を指し示す働きをしました。 新約時代に、彼の「油注ぎ」をいただいている現代のキリスト者、クリスチャンは、小さなキリス ト、として、彼を指し示す存在として、この世から召し出されました。

 

@Ⅰペテロ2:9【新改訳 2017】 2:9 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民で す。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉 を、あなたがたが告げ知らせるためです。

 

この文脈での「闇」というのは、この世です。創造主を認めず、受け入れず、排除して、人間だけ で上手くやろう、という思想、構造、制度、それが闇であり、この世です。

そしてこの文脈での「光」というのは、神の国、天の御国、いわゆる天国です。

 

注意していただきたいのは、世間でいう「天国」というのは、死んでから行く死後の世界、あの 世、仏教でいう極楽ですが、聖書の教える「天国」は、死後の世界ではありません。 聖書の教える「天国」という言葉は、もともとの意味において「神の支配」を意味しています。で すので、神の支配があるところはすべて「天国」です。 2000年前に主イエスが歩かれた地上のイスラエルに「天国」つまり「神の支配」は現わされまし た。 また黙示録にあるように、いずれ主イエスが地上に帰ってこられ、地上にご自身の王国を築か れます。いわゆる千年王国、これが天国です。

 

もうひとつあります。今の時代、エクレシアは「天国」つまり「神の支配」です。

 

@エペソ1:23【新改訳 2017】 1:23 教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておら れるところです。

 

新改訳では「満たす方が満ちておられるところ」と訳していますが、本来の意味は「満たす方の 満ちているもの」、「充満」という意味です。

わかりやすく言えばこうです。 「エクレシアはキリストの体であり、すべてのものをすべてのもので満たす方の充満」 つまり、エクレシアはキリストが満ちている、ということです。

ただ、これは必ずしもキリスト教という宗教の集まり、いわゆる「教会」と同じではありません。

残念な事実として、キリスト教のボクシが心を病み、シントは疲れ果て、教会が衰退していく、と いう現状があります。 もしキリスト教という宗教が、真実に「キリストの教え」であるならば、そんなことは起こりえま せん。

 

ヨハネ伝10:10【新改訳 2017】 10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが 来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。 わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

 

とあるので、主イ エスの羊であるキリスト者、エクレシアは、そこに集う人は健やかになります。日常生活の中に 困難や苦労はあっても、その中にキリストのいのちが現わされます。

 

@Ⅱコリント5:13ー15【新改訳 2017】 5:13 私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあ なたがたのためです。 5:14 というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。 一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。 5:15 キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分の ためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

 

自分のために生きるのであれば、キリストにあるいのちを体験する、味わう、そういったことは、 ありません。言い換えるなら「天国」を知ることはないでしょう。 しかし、自分のために死んでよみがえった方のために生きるのであれば、私たちはそれを体験 し、味わうことができます。言い換えるなら、今すでに、神の支配の中に生きていることを知る ことができます。いま「天国」にいることを、経験します。

主イエスは、病人を癒し、悪い霊を追い出し、「天国」の到来を伝えました。 それは、今も継続しています。 イエス・キリストの働きを継続するのが、キリスト者であり、エクレシア、です。 私たちは、それを継続していく、キリストの体としての、エクレシアです。

 

さて、さきほど、Ⅰヨハネ2:20を読んだ際に、「塗り油」と「注ぎの油」について、違うものだと お伝えしました。 キリスト教では「油注ぎ」という言葉が使われますが、現代において「油注ぎ」という言葉を使う ときには注意が必要です。キリスト教では、油注がれた器とか、新しい油注ぎとか、やりますが、 今の時代において、個人が「油注ぎ」を求めるというのは、正しい聖書理解ではありません。 「注ぎの油」、「油注ぎ」、これはイエス・キリストにおいて、完了しています。

私たちキリスト者は、エクレシアとして、キリストの体です。その頭はイエス・キリストです。頭で あるイエス・キリストが受けた油が、その体であるエクレシアにしたたり落ちてくる分を、私たち は受けます。そして、キリストの体として、キリストの働きをします。

 

詩篇133:2【新改訳 2017】 133:2 それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にま で流れ滴る。

 

この詩編は、出エジプト記に登場する大祭司アロンの様子を歌っています。大祭司というのは、 イエス・キリストを予表する働きです。へブル書では、イエス・キリストこそまことの大祭司であ る、と書かれています。

この詩編にあるように、頭に注がれた油が、ひげに流れて、衣の端にま で流れる、これが私たちキリスト者、エクレシアが受ける「油注ぎ」です。

ですので、今の時代に、新しく、個人的に、「油そそぎ」を受ける、受け取る、受け取った、という のは、間違いです。 善意であれば不正確な聖書理解であり、悪意であれば偽キリストということになります。

私たちが主イエスの体として働くとき、彼の受けた油が私たちに伝わり、力ある働きをなされ ます。主イエスの受けた油がしたたり落ち、私たちを用いる、それが現代の「油注ぎ」です。主イ エスの受けた「油注ぎ」が私たちに働くのは、私たちがどれだけ主イエスに服しているのか、そ の権威を認めているか、従っているか、それによります。

 

これを理解せず、個人的に「油注ぎ」を求めるときに、それは真理に立っていません。そして真 理に立っていないということは、偽りに踏み出しているということです。 そこには異なる霊が働く隙を造る、その危険性があります。注意してください。

 

私たちが個人的に受けるのは、Ⅰヨハネ2:20にある「塗り油」です。 祈りの時、聖書を読むとき、賛美をささげるとき、私たちの魂に主イエスが触れてくださり、安 らぎ、甘さ、またあるときは、重さ、そういった感覚を味合わせてくださる、そして乾いた部分 を潤してくださる、それが「塗り油」です。 まずは、この初歩の教えを学んでいくのに、まずはこの「塗り油」を求めていきましょう。 この油は、ひとりひとりが羊飼いである主イエスに、直接、触れていただくことです。 ひとりひとりが、キリストの羊として、いのちを得て、それを豊かに保つためのものです。

 

あなたがたのうちには、御子から受けた塗り油がとどまっているので、だれかに教えてもらう 必要はありません。その塗り油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます