@イザヤ48:12【新改訳2017】
わたしに聞け、ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしが初めであり、また、終わりである。
@イザヤ48:12【新共同訳】
ヤコブよ、わたしに耳を傾けよ。わたしが呼び出したイスラエル。わたしは神、初めでありまた終わりであるもの。
この「聞く」ということについて、聖書のいくつかの箇所が思い浮かびます。
新約聖書から三つの御言葉を引用します。
福音書ではルカ8:18に、「種まく人のたとえ」、「あかりと燭台」のたとえに続き、こうあります。
@ルカ8:18【新改訳2017】
ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまで取り上げられるからです。」
続けてローマ人への手紙10:17。
@ローマ10:17【新改訳2017】
ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。
@ローマ10:17【新共同訳】
実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
@ローマ10:17【口語訳】
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
もう一か所、エペソ人への手紙4:21-24。
@エペソ4:21-24【新改訳2017】
ただし、本当にあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすれば、です。真理はイエスにあるのですから。
その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、
また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、
真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。
@エペソ4:21-24【口語訳】
あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。
すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、
心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。
他の訳もご紹介します。
@エペソ4:21-24【回復訳】
もしあなたがたが真に彼に聞き、そして彼の中で、イエスにあるあの実際にしたがって教えられているのであれば、あなたがたは、以前の生活様式において、あの欺きの情欲によって腐敗している古い人を、脱ぎ捨ててしまったのです。そして、あなたがたの思いの霊の中で新しくされ、また、あの実際の義と聖の中で、神にしたがって創造された、新しい人を着たのです。
この御言葉の新改訳の「霊と心」、口語訳の「心の深み」、回復訳の「思いの霊」という言葉は、田川訳では「理性の霊」、岩波訳では「思念の霊」という言葉で訳されています。
(*2023.1.20追記。新改訳2017は、「キリストについて」という言い回しがお好みのご様子。それってヨブ42:5を思う。ヨハネ17:3はギノースコー、経験によって知る。)
「聞く」という言葉から、思いついた御言葉を三つ読みました。
ルカ伝8:18は、聴き方に注意すること。
ローマ書10:17は、キリストの言葉を聞くこと。
エペソ書4:21-24は、キリストに聞き、キリストの中で、新しくされていること。
これらを確認しました。
イザヤ48:12で「私に聞け、ヤコブよ。私が呼び出したイスラエルよ」と、ヤコブ、イスラエル、とふたつの名前で呼ばれています。
それは、生まれながらの名前と、神に出会い祝福された名前です。
エペソ書で確認したように、私たちは以前は古い人でしたが、今は新しい人です。
かつてはアダムに属する者でしたが、今はキリストに属する者です。
この新しくされた事実、救われた、という事実は、伝えられた御言葉を認めて受け入れた結果です。
ローマ10:17にあるとおり、私たちが認めて受け入れた御言葉は、私たちの内で実現します。
そして、御言葉が私たちの内で実現していくことは、私たちの態度によります。
ルカ伝でイエスは言われました「聞き方に注意しなさい」、これは私たちの御言葉を受け止める態度、主に向かう姿勢です。
これは、必ずしも御言葉を理解する、ということではありません。もちろん、御言葉の理解はとても大切です。ですが理解の前に、私たちは御言葉を認めて受け止めることが大切です。それは、神の言葉に服する、神の権威を認める、という態度です。
私たちは、この世から呼び出されたもの、エクレシアです。
この世は、時とともに闇が増していきます。その中で、聖書の価値観は、ないがしろにされています。
キリスト教という名称の宗教においても、それは世と同じです。
その中にあって、神の言葉の権威を認めて服する、という態度は、暗闇に輝く光です。
それは燭台の上に置かれます。燭台は黙示録に記述されるように、エクレシアを意味しています。
暗闇の中であかりを灯す、このために私たちはこの世から呼び出されました。
神の言葉の権威を認め服するもの、「神のことば」であるキリストを認め服するもの、それがエクレシアです。
この神の言葉への正しい姿勢を持たないものは、世の流れ、世の考え、世の価値観になじんでいき、御言葉の真理を見失い、やがて黙示録にある災いを実現します。
イザヤ48:12において、主はご自身を「始めであり、終わりである」と教えています。
時間のはじまりから終わりまで、すべては主の御手の中、主の支配にあり、主の権威の下に、存在しています。
私たちはこの時間の終わりがどうなるのか、すでに聖書に記述されるところを知っています。
ですので結論的には、なにも恐れるものは、ありません。
目に見えるところ、耳に聞こえるところ、以前より悪くなっている、と私たちは感じています。
そして、聖書に提示される終末、携挙、再臨、千年王国が、身近に迫っている、と思っています。
ただ初代教会の時代から、再臨は近い、という思想がありました。
パウロは、自分は携挙されると考えていました。
この2000年間、キリスト者は、ずっと終末を待ち望んでいました。
私たちはかつて、教会成長、会堂建築、リバイバル、そういった地上的なものに心を向け、求めていました。福音宣教を推し進め、第宣教命令に応えるといった様相でしたが、実際には、地上の繁栄を求めていただけかもしれません。
目に見えるところ、耳に聞こえるところによって、終末に意識が向くようになったというのは、私たちへの主の計らいです。
主の計らいによって、終末に視点を置く、主を待ち望むという、実のところ、初代教会にならう、健全な方向転換をさせられたといえるでしょう。
さて、私たちはこの世のものではありませんので、この世がどうであれ、祝福の御言葉を味わう特権が与えられています。
@詩篇16:5-6【新改訳2017】
主は私への割り当て分また杯。あなたは私の受ける分を堅く保たれます。
割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい私へのゆずりの地です。
@詩篇81:16【新改訳2017】
主は最良の小麦を御民に食べさせる。わたしは岩から滴る蜜であなたを満ち足らせる。
@詩篇91:10-11【新改訳2017】
わざわいはあなたに降りかからず疫病もあなたの天幕に近づかない。
主があなたのために御使いたちに命じてあなたのすべての道であなたを守られるからだ。
これらの御言葉が、実際の生活の中で現わされるのを、私たちは見ることになります。
また、もしかすると実際の生活においては、想定できない不都合なことが起きてくるかもしれません。
ですが、初代教会はエルサレムから散らされることで福音は広がり、キリストの充満であるエクレシアは、増殖しました。
私たちの思うところを超える主の配剤が、つねに備えられています。
@ローマ8:28【新改訳2017】
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
どのような事態にあっても、御言葉を認めて受け入れ、主の権威に服すことが、私たちの勝利です。