I.D.F.

Independent Disciple fellowship

2020テーマと重点④

神の敵に対する備え

 

さて、重点である「霊的武具」についてです。

 

@エペソ6:10-18

10終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

11悪魔の策略に対して立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。

12わたしたちの格闘は、血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

13ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。

14そして堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、

15足には平和の福音の備えを履きなさい。

16これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をすべて消すことができます。

17救いの兜をかぶり、御霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

18あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも、御霊によって祈りなさい。

そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。  

 

まず「悪魔」というのは、霊です。目に見えない存在です。創造主なる神に造られた存在であり、時間の中に存在しているので、永遠の存在である神の手の中にあり、到底、神には及びません。

ですが、神に造られた存在の中で頂点にあったときに、神の座に昇り、神にとって代わりたい、と願った存在です。ですので、私たちよりは知恵があり、力があり、恐ろしい存在です。

これは、私たちが直接戦う、ガチンコする相手ではありません。悪魔とガチンコするのは、主イエスであり、天の御使いたちです。肉体を持った私たちが戦う相手ではありません。

 

私たちが戦うのは、「悪魔の策略」です。これは他の翻訳では「悪魔の詐欺」とか「悪魔の悪だくみ」という言葉で訳されています。

また、「対して立つ」という言葉は、「立場を守る」という翻訳ができるそうです。

私たちの戦いは、悪魔の嘘、偽りに対して、私たちの立場を守る、ことです。

私たちの戦いは、「立つ」ことです。防衛戦です。攻撃する戦い、進軍ではありません。

 

私たちは、勝利を得るために戦うものではありません。

私たちは、勝利を与えられたから、戦うのです。

勝利者になるために、地位を獲得するために戦うのではありません。

キリストの勝利を与えられ、地位を持っているがゆえに戦うのです。

もう一度、テーマの御言葉を確認しましょう。

 

@ローマ8:37

しかし、これらのことにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。

 

私たちは、すでに勝利者です。愛してくださったキリストにより、勝利者です。

 

さて、霊的戦い、という概念が、キリスト教会で、流行った時期があります。

地域の宣教のために、そこにいる悪霊を縛る、とか、イエスの聖名で霊的な宣言をする、そういった教えや活動です。これは、防衛戦ではなく、敵を攻撃する戦い、進軍です。

 

私は個人的には、霊的戦いと呼ばれる概念を否定はしません。

実際、霊的戦いをして、路傍伝道して、その日、歓楽街の客引きの方が救われた、ということもありました。霊の世界は、目に見えない現実です。ですので、そういった概念を否定はしません。

ですが、推奨もしません。ペテロやパウロが、霊的戦いをして宣教を進めた、聖書にはそのような記述はありません。私たちが、聖書の教える範囲にとどまり、霊的な世界に触れるのは、問題ありません。ですが、聖書の教える範囲から出て、霊的な世界に触れることは、注意が必要です。

もしかすると、ある時には、そうした祈り、賛美、宣言、霊的戦いに導かれることもあるでしょう。

ですが、それは通常ではありません。

 

聖書が教える私たちの戦いは、悪魔の嘘、偽りに対して、私たちの立場を守る、ことです。

そのために、私たちは、神の与える霊的武具を身に着けるように、教えられています。

 

パウロはAD60年ごろ、イエス・キリストの昇天後30年弱のときに、この手紙をローマの獄中にあって、小アジアの教会で回覧することを意図して書いたと、いわれています。

パウロは獄中にいたので、毎日見るローマ兵の武装を見ていたことでしょう。そこでイザヤ59:17を黙想しつつ、ローマ兵の装備品になぞらえて、この文章を書いたのでしょう。

 

書かれている装備は、6つあります。

 

①真理の帯  ②正義の胸当て  ③平和の福音の備え 

④信仰の大盾  ⑤救いのかぶと  ⑥御霊の与える剣

 

はじめの三つは戦場で身に着けているもの、あとの三つは戦闘の際に身に着けるもの、です。

 

  • 真理の帯                                              

帯は腰に巻きます。「腰」は漢字で「肉月に要」と書くように、身体の中心的な部分、また重心です。「腰に真理の帯を締め」るというのは、まず第一に、真理であるお方、イエス・キリストを私の中心とすることです。

 

主イエスは言われました。「私は道であり、真理であり、いのちです。私を通してでなければ、誰ひとり父のみもとに来ることはありません。ヨハネ伝14:6」。

また、聖書に書かれた神の真理を中心としていきること、つまり御言葉を日常生活の行動原則にする、ということです。ただ、それを自分でするのではありません。内におられるお方、キリストに生きていただくのです。

また真理という言葉は、ギリシャ的には、事実、真実、実在、という意味ですが、へブル的には、約束や言葉への忠実さ、を意味します。

この二つの意味を考えるとき、私たちの主イエスが、ユダヤ人の救い主であり、異邦人の救い主である、唯一の救い主であることを思わされます。

 

@黙示録19:11

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。

 

このお方は、ギリシャ的にも、へブル的にも、真理なお方です。

 

さて、真理が打ち破るものは、偽りです。

ヨハネ伝8:44には、悪魔は「偽りの父」であると書かれています。

神が禁じられた善悪の知識の木の実を取っても「決して死にません。」と偽りをエバに吹き込み、罪に引き込みました。

悪魔は常に偽りを語り、この世に、偽りの神々、偽りの宗教を作り出しています。

また、世の知識や知恵によって対決的にキリスト者を攻撃します。またある時は聖書のことばを使って主イエスを誘惑したように、キリスト者を欺こうとしています。

異端やカルトは聖書の一部だけを取り出して強調し、聖書の整合性を無視しています。

また正統を自称するところでは、建前では聖書が神のことばであるとしても、実際には聖書をこの世の生活に知恵を与える書物、道徳や倫理の書物にして、人の知性の範囲で制限しています。

 

また、私たちは流行の教えにも警戒しなければなりません。真理に近いけれども真理ではないもの、御言葉で理論武装しているが霊が違うもの、それは大体「大衆ウケ」するものです。

 

私たちは、非常に恵まれた時代に生かされています。自分の聖書を持っています。自分の言葉で聖書が読めます。自分で聖書を学ぶことができます。スマホタブレット、PCで、さまざまな情報が得られます。聖書についても、たくさんの学びが可能です。そんな時代はこれまでありませんでした。ぜひ、機会を用いて、時間を生かして、ご自分の聖書理解を建てあげてください。聖書が理解できるほどに、イエス・キリストを中心とした人生を建てあげることができます。

 

イエス・キリストを中心とすること、これが私たちの「真理の帯」です。

 

  • 正義の胸当て  

胸には、心臓があり、肺があり、生命維持の器官が詰まっています。

また一般的に、胸は心の宿るところとみなされています。

「胸に手を当てて考える」という言い回しがありますし、感情的な表現で、胸が苦しい、胸のつかいがとれた、と表現します。英語では「heart」 という言葉は、心臓という意味でも、心という意味でも使われています。聖書的には、心は(霊+魂)です。ですので、胸はとても大切な守るべき部分です。

 

そして、この胸当ては「正義の胸当て」と訳されていますが、「義の胸当て」の方が、適当な翻訳です。英語では「ライチャスネス」が使われており、「ジャスティス」ではありません。

 

創世記6:8に登場するノア、箱舟で有名なノアは、正しい人「ライチャス」でした。9節では「ノアは神とともに歩んだ」そう書かれています。それが彼の正しさです。

それは、詩篇16:8で歌われていることと同じことでしょう。

詩篇16:8

私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。

 

また、アブラハムは創世記15:6で、正しい、「ライチャスネス」とされました。「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」、そう書かれています。アブラハムは、聖書もない時代、誰も導いてくれる人がいない時代に、この創造主なる神を事実としました、主を実在として認めました、それが彼の正しさです。

 

私たちの義、正しさ、ライチャスネスはなんでしょうか。

無論、これはイエス・キリストを信じた、イエス・キリストを救い主として受け入れた、これが私たちの義です。

 

@ローマ8:10

キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義(ライチャスネス)のゆえにいのちとなっています。

 

私たちのうちに、キリストが住まわれている、これが私たちの「正義の胸当て」です。

 

  • 福音の備え                                        

古来、戦争の結果は、戦場からの伝令によって告げられました。マラソンの起源にあるように、「勝利」と「平和」を告げる伝令が来るのを、人々は待ち望んでいました。

キリスト者は、キリストの勝利を伝える伝令です。キリストの、罪と死と悪魔への勝利を伝えるものです。かつては神の敵であった我々が、キリストの十字架によって神と和解し、平和を与えられた事実を伝えるように期待され、備えられています。

 

@Ⅰペテロ3:15b

あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。

 

私たちの希望は、なんでしょうか。

主が生きて働かれる、今日、私たちに応えてくださる、という希望です。

主が、私たちを天に引き上げ、神の裁きから守ってくださるという希望です。

主が、再び地上に戻ってこられ、地上を治め、まだ成就していない約束を、ことごとく実現されるという希望です。

そして、主が万物を刷新し、新しい天、新しい地、新しい都で、永遠に神と生きる、その希望です。

 

なぜに、そんな希望を持てるのか、それは、イエス・キリストが私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日の後に復活され、今も生きておられ、私たちに救いを与えてくださったからです。

 

私たちは希望を持っている、それを伝えることができる、これが私たちの福音の備えです。

 

ここまでに見た、真理の帯、胸当て、履物、これらは、戦場で常に身に着けている装備です。

私たちの戦場はどこでしょうか。それは、私たちの日常生活です

キリストを中心に生きること、キリストが内にあられること、福音を伝える備え、これらは私たちの日常の生活で、いつも実践しておくべきことです。

 

  • 大盾

ローマ兵の大盾は、長さ120Cm、幅75Cmほどで、木材を動物の革で覆い、実際に使う時には、大盾を水に浸して革に水分を含ませ、全身をカバーしたそうです。当時の火矢というのは、鉄の矢尻にタールをつけ、それを燃やしたもので、矢によって相手を傷つけるだけでなく、火傷を負わせることを意図されていました。

 

敵は、火矢を放ってきます。それは、私たちの思い、私たちの知性と感情の働きに向けての、敵の攻撃です。

 

@エペソ2:2

そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

 

この空中には、霊が働いています。それらが私たちに向けて、火矢を放っています。

私たちが思いつくこと、思い描くこと、フッと湧き上がるもの、これらはすべてが自分から出てくるものではありません。敵の放つ「火矢」には、いくつか種類があります。

 

火矢①「罪定め」  

罪定め。罪をしめす聖霊の働きを、「御霊の照明」と呼びます。これは痛みがありますが、悔い改めいと共に解放があります。ですが、敵の「罪定め」は、悔い改めた後にも、罪責感と後悔が続きます。

 

火矢②「否定的感情」   

理由のない落ち込み、無気力。

 

火矢③「自己高揚の誘惑」 

思い上がり、状況への不平不満。

 

火矢④「神の言葉への疑い」 

蛇の誘惑は、「あなたがたは、園のどんな木からでも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(創世記3:1)ということばであり、神を疑わせることでした。

 

これらの敵の火矢には、信仰、で対抗します。

 

@へブル11:1

さて、信仰は望んでいる事を保証し、目に見えないものを確信させるものです。

 

信仰を、ごくごく単純にしますと、それは、事実と認める、ということです。

大きな声も、強い感情も、必要ありません。あってもかまいませんが、なくともよいのです。

 

信じます、信じます、信じます、という繰り返す言葉は、信じていないことの証明です。

単純に、事実と認める、それが信仰です。

 

銀行の通帳に書かれている数字を見て、本当だろうか、と不安を覚えるでしょうか。

聖書に書かれている御言葉を見て、本当だろうか、と不安を覚えますか?

 

信仰の大楯は、帯を締め、胸当てをつけ、履物をつけた上に、取るように命じられています。

イエス・キリストを中心とし、イエス・キリストが内におられることを認め、イエス・キリストにある希望、これらを事実とする、実際と認める、それが私たちの信仰の大楯です。

 

  • 救いのかぶと

ローマ兵のかぶとは皮の上に金属の板を貼り付けたものです。

頭は、知性を象徴する部分であり、この知性を「救い」で覆うことは、大切なことです。

 

救いは、イエス・キリストの十字架によります。

十字架なしの救いはありません。そこでは、私たちの身代わりに死なれた神の御子イエス・キリストを知ることと、私たちが彼のうちにあってともに死んだことを知らなければなりません。

 

救いには、「過去・現在・未来」の状態があります。

私たちは、自分の罪を悔い改め、キリストを信じて、罪の刑罰から救われました。

私たちは、誘惑を避け、キリストの内にある死と復活を認めて生き、また日々の失敗においては悔い改めをして、神の前に生きることができます。これは罪のちからからの救いであり、日々更新される現在の救いです。

私たちは、将来、この身体を脱ぎ捨て、新しい朽ちない体を着せられます。そのとき、私たちは罪の存在から救われます。これは未来の救いであり、救いの完成です。

 

また、これからの時代がどうなっていくのか、それは黙示録に書かれています。

一般的に、終末論、と呼ばれますが、どのように黙示録が成就していくのか、神の救いの計画がどのように完成されていくのか、自分なりに理解しておくことは大切です。

 

聖書の提示する救いとはなにか、それを理解すること、これが私たちの「救いのかぶと」です。

 

  • 御霊の剣、神の言葉

@へブル412

神の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

 

主イエスは、荒野での誘惑の際に、奇跡を行って対抗しませんでした。

主イエスは、申命記の御言葉を告白することで、誘惑に対抗し、敵に打ち勝ちました。

同じように私たちも、置かれた状況に合わせて、御言葉を語ることができます。

 

私が今回の緊急事態宣言にあって、告白したのは詩篇91:10です。

 

詩篇91:10

わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。

 

ちょうど、IDFの学びで、人の構造はモーセの幕屋の構造と対比できる、新約聖書ではペテロやパウロが、身体を幕屋、天幕と呼んでいる、と話した後でしたので、この御言葉を告白しました。

 

またインターネットで、幾人かのキリスト者のメッセージを聞いているのですが、ある方がイザヤ30:15を語っていました。

 

@イザヤ30:15

イスラエルの聖なる方、神である主は、こう仰せられる。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」

 

御言葉は、私たちキリスト者の思考を整えます。そして、感情を治めます。その結果、自分が天において、どのような地位にあるのか、思い返すことができます。

 

そして、私たちが主に信頼して安息するときに、主は働かれます。

 

@イザヤ55:11

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、むなしく帰って来ることはない。それは、わたしの望む事を成し遂げ、わたしが言い送った事を成功させる。

 

@マタイ伝4:4b

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」

 

聖書に書かれている御言葉、神の言葉、これが私たちの武器、霊の剣です。

 

 

おわりに

2020年の年報にあるテーマ、重点から、エペソ書をおおまかに見て、座る、歩く、立つ、というキリスト者の在り方を見てきました。私が取りこぼしている素晴らしい内容が、まだまだありますので、ご自身で読み、また学んでみてください。

 

この御言葉の交わりが、みなさんの益となり、キリストの体が建てあげられることを願います。

GBY!