@ヨブ記14章
10:しかし、人間は死ぬと、倒れたきりだ。人は、息絶えると、どこにいるか。
14:人が死ぬと、生き返るでしょうか。私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう。
死後について、人は思いめぐらす。ヨブ記は最古の聖書とされている。
@伝道者3:18-21
21:だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。
@伝道者12:7
ちりはもとあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る。
人の霊は、神からの貸与品であり、それが取り去られるとき、人は身体において死ぬ。
すべての人の霊は、神のもとに上る。
@創世記3:19
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。
身体はやがて土に還ります。
魂の状態
多くのキリスト教会では、霊と魂を同義語と考えている。
聖書は、霊と魂を区別している。
@Ⅰテサロニケ5:23
@へブル4:12
@Ⅰコリント5:5
@Ⅰペテロ1:9
ペテロは、Ⅱペテロ1:13「地上の幕屋にいる間」、同14「幕屋を脱ぎ捨てる」
パウロは、Ⅱコリント5:1-4「住まいである幕屋」
モーセの幕屋の構造、至聖所、聖所、大庭、と、霊、魂、身体、と対比させて考えることができる。
@マタイ伝27:51
すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
至聖所と聖所の隔てが、神の方法で(へブル10:20)、取り除かれた。
それは、霊と魂の隔てが取り除かれたことを示唆している。
へブル9:4の「金の香壇」の位置に注目 ⇒ 出エジプト30:1-8
キリスト者は、霊が再生され、霊と魂は一体となっている。
キリスト者の死後
@Ⅰコリント4:16-5:10
4:16ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
5:1私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
5:2私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
5:3それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
5:4確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
5:5私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。
5:6そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。
5:7確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。
5:8私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。
5:9そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
5:10なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
対比される事柄
16:外なる人 ↔ 内なる人(外なる人=肉体、内なる人=霊と魂)
17:軽い艱難 ↔ 重い永遠の栄光
18:見えるもの ↔ 見えないもの
1-4:地上の幕屋 ↔ 天にある永遠の家
肉体を離れて主のみもとにいるほうがよい!
@ピリピ1:21-25
1:20それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。
1:21私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
1:22しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。
1:23私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。
1:24しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。
世を去ってキリストとともにいることが、はるかにまさっている!
キリスト者の霊と魂は、ひとつとなっているので、身体を離れた後、すぐに天に上る。
@黙示録6:9
小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」と言い渡された。
キリスト者は死んだ後、霊と魂が天にあげられ、主が地上のキリスト者を携挙する時まで、休むことになる。
やがて、主の携挙の日に、身体を持ってよみがえり、生きているキリスト者とともに、天にあげられる。
@Ⅰテサロニケ4:16-17
4:16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
その後、キリストの裁きの座にて、報いを得る。
@Ⅰコリント5:10
なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
@Ⅰコリント3:10-17
与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。 3:11というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。 3:12もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、 3:13各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。 3:14もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。 3:15もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
3:16あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。 3:17もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。
この裁きは、救われた者への裁きであって、報酬を受けるための査定。
マタイ伝25:14-30。
「外の暗闇」は、地獄ではない。マタイ伝での文脈は、メシア王国であり、千年王国。
暗闇に出される理由
@マタイ伝25:24
ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
@マタイ伝12:33-37
木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。
このキリストの裁きの座を受けた人は、白い御座の裁きはない。
@ へブル9:27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているよう、
キリストの裁きの座を過ぎた後、イエス・キリストの地上再臨、いわゆる千年王国の際に、キリストに同行する。
@黙示録19:11-14
それは、ヨブ記で預言されている。
@ヨブ19:25-27a
私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。
私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。
この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。
生まれながらの人の死後
生まれながらの人、アダムの子孫は、霊は死んでいる(原意:死にながら死んでいく/訳:必ず死ぬ)(創世記2:17)。
それは、霊と魂が隔てられている状態となり、魂は霊の機能なしで生存するため肥大化しており、機能不全に陥っている。
霊が取り去られるとき、魂は霊と分離しているので、霊は上に上るが、魂は上らず、よみに落ちる。
@ルカ伝16:19-31
アブラハムのふところは、イエスの凱旋時に、天に挙げられている。
使徒1:11、エペソ4:8、ユダ14を参照。
イエスの昇天は単独ではなく、勝利の凱旋。
現在の「よみ」は、苦しみの場所のみ。
そこでは、知性、記憶が継続している。
その後、白い御座の裁き、にて裁かれる。
@黙示録20:11-15
ここでは、自分の行い、によって裁かれる。
@ローマ3:20のとおり、行いによってはだれひとり、義と認められない。