I.D.F.

Independent Disciple fellowship

I.D.F.基調

日曜日に「キリスト教会」という場所に行き、キリストを求め、神を礼拝する、これがキリスト教

 

毎日「キリスト召衆/エクレシア」として生き、キリストとひとつを味わい、神を霊拝する、これがキリスト生活。

 

キリスト教は、旧約聖書の概念を引きずりながら、新約聖書に生きようとしているので、無理がある。

 

ヨハネ伝4章にあるとおり、御父が求められるのは「霊と真理」による霊拝者。

 

土曜日とか日曜日とか、特定の日ではなく。

 

全ての日において、キリストと「ひとつ」として生きる。

それが「新創造」、「新約の祭司」、「キリストの弟子」、キリスト者の姿勢。

 

土曜日の「安息日礼拝」、日曜日の「主日礼拝」そういった宗教活動は、自分の「魂」の整備として、それはそれで有益です。

キリスト者が集い、「主の祈り」「使徒信条」「詩編23編」を告白して共有して、知・情・意において、喜ぶ、それはよいこと。

ただし、それは楽器の調律のようなもの、武術の「型」稽古のようなもの。

 

牧師や神父という宗教者を「祭司」にして、自分とキリストとの仲介者として機能することを容認し、また期待した、礼拝式の宗教活動。

これで「信」のある生活をしている、などと認識しているならば…。

 

 

それは新約聖書の提示する内容とは、かなりかけ離れています。

 

エレミヤ31:31にある「新しい契約」を無視し、Ⅰヨハネ2:24-27をないがしろにする、旧約聖書的な在り方。

 

新約において、キリスト者が共に集まるときには、コロサイ3:16が期待されるのが、新約聖書的な在り方です。

 

「キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。全き知恵により、互いに教え、聡し、詩と賛歌と霊の歌を、恵みにより神に向かって心から歌いなさい。」

 

新約聖書が、互いに教え、諭す、ということを教えているということは…。

 

牧師が一方的に話をし、信徒や会衆はそれを聞く、という集まりは、新約聖書的ではない、ということです。

 

もちろん、教えを聞く、聖書を学ぶ、それはよいこと。

 

でも、ともすると義務教育で身に染みつけられた「先生のいうことを覚える」という姿勢が、キリストの「聖徒」ではなく牧師の「生徒」に、無意識的に作用しているやもしれません。

 

イエシュアはヨハネ4章で、この山でもあの山でもない、と言われました。

特定の場所、特定の宗教儀式での礼拝は、旧約的礼拝。

旧約的な姿勢で、新約を生きようとするのは、無理。

 

 

無理がある、ということは、どこか弱いところに負担が掛かるわけで…。

牧師が心を病んでしまうというのは、泣くには愚かしく、笑うには悲しすぎる現実。

 

それは旧約的な在り方を引きずる「キリスト教」の「実」。

木の良し悪しは、「実」によって判断される。

心を病むのは、良い実ではありません。

 

それは、裁きが神の家から始まる、というⅠペテロ4:17の御言葉が実現しているともいえます。

 

イエス・キリストは、言われました。

 

ヨハネ伝4:14 協共訳
「私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」

 

ヨハネ伝8:32 協共訳

「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」

 

ヨハネ伝10:10 協共訳

「私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。」

 

 

 キリスト召衆・深流会は、クリスチャンひとりひとりが「キリストの弟子」また「新約の祭司」として、キリスト生活を生き、喜び、楽しむことを意図し、また実践するよう願っています。

 

キリスト者が、宗教組織「キリスト教の会」から解放され、 各々が集う際にパン裂きをし、 キリストを伝えた方が川や海やプールでバプテスマを行い、それぞれが「キリストの弟子」として、生活の中においてキリストを味わい楽しむこと、それがエクレシア(召衆)のあるべき姿と考えます。

 

ひとりひとりが、自分の聖書理解を建て上げ、他者の聖書理解を尊重し、互いに学び合い、仕え合う、そのようなキリスト者となることを願っています。

このブログ記事はその意図に基づき、各々御自身の聖書理解を建て上げるための「叩き台」として、ご活用くだされば幸いです。