I.D.F.

Independent Disciple fellowship

「霊・魂・体の救い」メッセ原稿

f:id:DEEPER:20201122152146j:plain

 

@Ⅰテサロニケ5:23【新改訳2017】

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

 

聖書の「救い」という言葉は、「危険な状況からの脱出」という意味があります。また「苦しい状態からの解放」ということもできます。

 

旧約聖書においては、イスラエル人たちが「圧迫する敵から解放される」という物語が展開します。

 

モーセに率いられエジプトの奴隷から解放されました。

 

約束の地カナンにおいては、ミデヤン人やペリシテ人といった他国からの攻撃から守られました。

 

それらはすべて「救い」です。

 

そのイスラエル人の歴史を通して、すべての人に与えられる「救い」、創造主が持っておられた本来の人類救済計画が少しずつ明らかにされていきます。

 

そして、イエス・キリストにあって、それは実現しました。イエス・キリストの十字架の死と復活により、全人類に「救い」が明らかにされます。

 

さて、1テサロニケ5:23では、「霊魂体のすべてが責められるところのないように」と書かれています。

 

この「霊魂体」という表現は、人の存在すべて、全人格を意味すると同時に、人が「霊」「魂」「体」の三つの部分で構成されていることを明らかにしています。

 

創世記において、人は神の「かたち」に創造されていると書かれています。

 

神であるヤハウェは、「御父・御子・御霊」という三位一体の存在です。

 

神であるヤハウェが、天の父、イエス・キリスト聖霊であるように、その「かたち」に造られている人は、「霊・魂・体」で構成されています。

 

「霊」というのは、霊を感じる器官、霊を認識する機能です。

 

私たちはあるとき、イエス・キリストが救い主だと理解しました、神に愛されていることを感じました、この世界が創造主である神ヤハウェの作品であることがわかりました、それらは私たちの霊が機能した結果です。

 

知性を超えた理解、いわゆる霊感、直覚、それが霊の機能です。

 

「魂」というのは、思考、感情、意志、です。言葉を理解し、判断し、感情を持ち、意志を働かせる、これが魂です。

 

「私」を認識し、「他人」を認識します。

 

これは、動物にもあります。たとえば、犬は人の命令を理解して、従います。

 

「体」というのは、五感の領域、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚で、物質世界を認識します。

 

さて、新約聖書の「救い」においては、Ⅰコリント5:5には「霊が救われる」という書き方があり、Ⅰペテロ1:9には「たましいの救い」という書き方があります。

 

霊と魂が違うものであれば、当然、霊の救いと、魂の救いも、違うものとなります。

 

そこで、今日は「霊の救い」、「魂の救い」、「体の救い」について、ざっくりと、聖書から確認したいと思います。

 

まず「霊の救い」について。

 

イエス・キリストを「救い主」として受け入れたキリスト者は「霊」において完全に救われています。

 

@Ⅰコリント15:3-5【新改訳2017】

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、

また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

 

イエス・キリストが私たちの罪のために死なれた事、葬られた事、三日目に甦られたことを事実と認め、この方を「救い主」として受け入れるなら、その人は救われます。

 

これは「霊の救い」です。

 

この「霊の救い」は、「罪の刑罰」からの救いです。

 

黙示録に書かれている「火の池」と呼ばれるところ、「第二の死」と呼ばれる永遠の滅び、いわゆる地獄、その「罪の刑罰」から完全に救われています。

 

この救いは、人の行いによるものではありません。

 

神から無償で与えられる恵みです。

 

本来は受けるに値しないものにあたえられる特別な贈り物です。

 

そしてこれは、過去の救い、ということができます。

 

私たちの「霊の救い」は、2000年前のカルバリの十字架で完成しています。

 

2020年に生きている私が犯した罪の罰、私への神の怒り、私への呪いは、私には下りません。

 

2000年前のカルバリの十字架に下ります。釘付けにされた主イエスに下ります。

 

この仕組みは、時間の中に存在する私たちには、よく理解できません

ですが、おそらく、創造主ヤハウェは、時間の外、永遠に存在されており、永遠から時間を見ておられるのでしょう。

 

永遠の視点から見るときに、アダムの創造、ノアの大洪水、アブラハムとの契約、モーセ出エジプトダビデゴリアテ退治、エリヤのカルメル山の戦い、バビロン捕囚、エルサレム再建、マリアへの受胎告知、主イエスの十字架、そして携挙、千年王国、これらすべて、創造主にとっては「今」なのだろうと、推察できます。

 

私たちの罪の代価、それはすべて2000年前のイエス・キリストの十字架において支払われており、私たちは罪の刑罰を受けることはありません。

 

これが「霊の救い」です。

 

では、一度救われたら罪を犯してもいいのか、好き勝手に生きて、なにも問題はないのか、もちろんそうではありません。

 

そこで「魂の救い」について、考える必要があります。

 

@Ⅰペテロ1:8-9【新改訳2017】

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。

あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

 

私たちは、イエス・キリストを実際に見たことはありません。

夢の中、幻の中で、主イエスに出会うという経験はあるかもしれませんが、12使徒たちのように彼を肉眼で見たわけではありません。

 

実際に見てはいませんが、彼の実在を認めています。

 

彼を思うときに喜びがあります。賛美を歌うときに湧き上がる感情があります。

 

これは「魂の救い」を得ている結果です。

 

ですが、私たちの魂は、様々な刺激で揺れ動きます。

 

日々の日常の生活の中で、その喜びは薄れます。

 

問題に直面すると、主イエスの実在を忘れます。心身の疲れを覚えるとき、賛美を歌うことに負担を感じます。

 

自分の弱さや失敗を覚えるとき、神から、聖書から、距離を取りたくなります。

 

また私たちは、生まれ持った性質、自分の人生経験、この世の価値観、それらを継続しようと願っています。

 

普段は意識していませんが、それらが聖書の御言葉と接触すると、葛藤を覚えます。

 

この人の魂に関する事柄は、とても難しく複雑です。簡単に扱うことができるものではありません。

 

ハッキリと言えることは、この世界には「罪のちから」が働いており、私たちキリスト者も、その影響を受けている、という事実です。

 

私たちの外側の罪は、イエス・キリストの十字架ですべて処理されました。

 

ですが、私たちの内側の罪は、まだ処理されていません。すべてのキリスト者の内側に、まだ罪はあります。

 

私たちはキリスト者として、「霊の救い」をいただいたものとして、内側にある罪から救われるように、自分の内側にある「罪のちから」から、日々救われ続けるように、期待されています。

 

@Ⅰペテロ2:2【新改訳2017】

生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

 

ヤコブ1:21【新改訳2017】

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

 

「魂の救い」は、「罪のちから」からの救いです。

 

そしてこれは、現在の救いです。いまここにある救いです。

 

そして、この救いは私たちの選び取りにより、私たちの考え、思い、価値観を、御言葉に従わせていく、私たちの従順により、獲得していくものです。

 

そして最後に、「体の救い」です。

 

この「体の救い」により、私たちの内側の罪が、解決されます。

 

@Ⅰコリント15:50-52【新改訳2017】

兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。

終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

 

この箇所は、私たちが天に挙げられる、携挙の事を教えています。

 

このときに、私たちは今の体ではない、別の体を与えられます。

 

これは奥義と呼ばれており、実際に起こってみないとわかりません。

  

@Ⅰコリント15:53-55【新改訳2017】

この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。

そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に呑み込まれた。」

「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」

 

新しい体を与えられるとき、私たちは内側の罪から解放されるとともに、「死」から完全に救われます。

 

アダム由来の土に還る体ではなく、全く新しい体が与えられます。

 

そして、アダムの違反からこの世界に入った「死」と、全く関わりのない存在となります。

 

この「体の救い」を得て、私たちの全人格的な「救い」が完成します。

 

この「体の救い」は、将来与えられる救いです。

 

ここまでの内容を振り返ってみます。

 f:id:DEEPER:20201122152248j:plain

私たちは、「霊の救い」、「罪の刑罰からの救い」をすでに受けました。神の怒りと永遠の滅びから、完全に救われています。これは過去の救いです。

 

私たちは、イエス・キリストにより「魂の救い」を受けています。御言葉により、「罪のちからからの救い」を、平安と勝利を日々、受け取っていくことができます。これは現在の救いです。

 

私たちは、「体の救い」を約束されています。来る日には「罪の存在からの救い」を得て、主イエス・キリストとお会いし、永遠にともに過ごすことになります。これは将来の救いです。

 

それでは最後に、Ⅰテサロニケ5:23を読んで、今日のメッセージを終えたいと思います。

 

f:id:DEEPER:20201122152350j:plain

 

into-deep-flow.hateblo.jp